幕間 銀河食堂にて
ヴィンクルム商会へ踏み込む、少し前のことだった。
まだ、ファイの日々が訓練と検査と、慣れない言葉ばかりでできていた頃。
銀河連邦の中で、自分の立つ場所が、まだ自分でもよく分からなかった頃。
ブエンに連れられて入った食堂は、ファイの知っているどの食堂とも違っていた。
天井は高く、白い光がやわらかく広がっている。壁際には長いカウンターが並び、その上には見たことのない料理がいくつも置かれていた。
淡く光るゼリー。
星屑みたいな粒を浮かべたスープ。
透明な葉に包まれた、肉のようなもの。
どれも地球のものとは少しずつ違って見えた。
銀色の制服を着た隊員たちが、その間を慣れた足取りで行き交っている。
「今日はここで食べる」
ブエンは短く言った。
「訓練を続けるにも、食べなければ身体が持たん」
ファイは小さくうなずきながら、並んだ料理を見回した。
知らないものばかりだった。
匂いも、色も、名前も分からない。食べ物だと分かっていても、どこから手をつけていいのか迷う。
そのときだった。
カウンターの一角に、小さな皿がいくつも並んでいるのが見えた。
白い粒の上に、赤や橙、銀色の切り身が乗っている。形も大きさも、地球で見たことのあるものに近い。
違うのは、切り身が角度によって星みたいにきらめくことと、白い粒が少しだけ透き通って見えることくらいだった。
ファイの目が、一気に丸くなった。
声は出なかった。
ただ、口だけが小さく開く。
「……お寿司……」
知らないものばかりの場所で、知っているものに似た形がある。
それだけで、胸の奥が少しだけゆるんだ。
あまりにも小さな声だったのに、ブエンには届いたらしい。
「知っているのか」
ファイは皿を見たまま、こくこくとうなずいた。
ブエンはその横顔を一度見た。
「このあたりの星でよく食べられているものだ。地球の料理に近い分類で言えば、寿司に近いらしい」
そう言って、ブエンは皿を一つ取った。
「食べてみるか」
差し出された皿を、ファイはゆっくりと受け取った。
まるで大事なものを渡されたみたいに、両手が少しだけ丁寧になる。
橙色の切り身は、地球のサーモンに似ていた。
深い赤の方は、マグロに近い。
けれど、どちらも地球のものより少しだけ光を含んでいて、宇宙の海で育ったと言われたら信じてしまいそうだった。
ファイはその近くに置かれた小皿を見た。
濃い色の液体と、緑色の薬味らしきもの。
迷わず、緑の方にだけ手を伸ばす。
「……そちらは使わないのか」
ブエンが聞く。
責める声ではなかった。
ただ見ている。訓練中に足の運びや呼吸を観察する時みたいに、ファイが何を選ぶのかを見ていた。
「うん。僕、お寿司はあんまりお醤油つけない」
そう言って、わさびに似た緑色の薬味だけをほんの少し乗せた。
「これは使いすぎるな。辛い」
「うん」
ブエンは近くの席を顎で示した。
「座るぞ。立ったまま食べるものではない」
席につくと、周囲の隊員たちがちらちらとこちらを見た。
だが今のファイは、そんな視線には気づいていなかった。
目の前の寿司を、真剣に見ていた。
箸を持つ手が、少しだけそわそわしている。
迷った末に、まずは橙色の方を選んだ。
一口、食べる。
次の瞬間だった。
「んーー!!!!」
ファイの肩がぴくっと上がった。
目が一気に輝く。頬がゆるむ。声にならないまま、全身で美味しいを表現していた。
ブエンは、手にしていた器を止めた。
「……落ち着いて食べろ」
硬い声だった。
けれど、訓練場での鋭さはそこにはなかった。叱るというより、あまりにも分かりやすい反応に少しだけ呆れているような、そんな声だった。
ファイはもう一つ食べた。
今度は赤い方だった。
また目が輝く。
そして、次の瞬間には立ち上がっていた。
「どこへ行く」
ブエンが低く言う。
「……ちょっと」
ちょっと、ではないことは顔を見れば分かった。
ファイはそのまま寿司の並ぶカウンターへ向かい、皿をいくつも見比べ始める。
橙色の寿司。
赤い寿司。
銀色の寿司。
少し青く光る、たぶん寿司。
戻ってきた時には、皿の上がかなり寿司で埋まっていた。
ファイはそれを両手で大事そうに持っていた。
その顔は真剣だった。
訓練の時とは別の意味で、ものすごく真剣だった。
ブエンは皿を見た。
それから、ファイを見た。
「……ファイ」
その声に、ファイの足が少しだけ止まる。
「もう少しバランスよく食べろ」
言葉だけ聞けば注意だった。
けれど、声の中に強い叱責はなかった。
ファイの顔が、分かりやすく少ししゅんとする。
「寿司だけで身体は作れん」
そう言って、ブエンは近くの鍋から別の皿を取った。
湯気の立つ、野菜のスープだった。
ファイはスープを見た。
それから寿司を見る。
もう一度スープを見る。
明らかに、寿司の方がよかった顔だった。
けれど、ブエンは寿司を取り上げなかった。
ただ、スープも食べろと言った。
訓練のあと、足がふらついていたことも。
魔法を使うと、すぐ息が乱れることも。
たぶん、全部見ていたのだ。
ファイは少しだけ目を伏せた。
それから、スープ皿をそっと両手で持ち上げる。
さっきより少しだけ、顔がやわらいでいた。
ブエンはその顔を見て、ほんのわずかに目元を緩めた。
「これも食べろ」
ファイはこくりとうなずいた。
ブエンは一拍置いてから、少しだけ声をやわらげる。
「……寿司を美味しく食べるためにもな」
ファイはきょとんとしてから、ふっと笑った。
「うん」
そう答えて、寿司ばかりの皿と野菜のスープを並べる。
それは少しちぐはぐで、でも妙にファイらしい食卓だった。
ファイはまず、もう一度寿司を見た。
食べたい、という気持ちが顔に出ている。
それでも先にスープへ手を伸ばした。
一口だけ飲んで、少しだけ眉を寄せる。
やっぱり寿司の方がいい、という顔だった。
けれど、そのあとで寿司を口に運ぶと、またすぐに目が輝いた。
「ん……!」
ブエンはその様子を見ながら、自分の食事へ戻った。
食堂のざわめきは変わらない。
銀色の制服も、知らない料理も、白い光も、何もかもまだ地球のものではない。
それでも、寿司を食べて目を輝かせるその顔だけは、どこかひどく年相応だった。
ブエンは器を置いた。
「食べ終わったら休憩は終わりだ」
「えっ」
「当然だ」
ファイは目を丸くしたまま、それでも皿を抱えるようにして寿司を見た。
少し急いで食べようかと迷っているのが、顔に出ている。
ブエンはそれを見て、ほんのわずかに目元を緩めた。
「……慌てるな」
低い声で言う。
「寿司は逃げん」
ファイはその言葉に、少しだけ安心したようにうなずいた。
そしてまた、目の前の皿に向き直る。
この日からファイは、銀河食堂へ来るたびに、最初に寿司の皿を探すようになった。




