第14話 闇の声
ファイが泣き止むまで、長い時間がかかった。
声が小さくなっても、涙はすぐには止まらなかった。息を吸おうとして、何度も途中でつかえる。ブエンの服を握る手も、なかなか緩まなかった。
ブエンは、その間ずっと離さなかった。
背中を強く叩くこともしない。
急かすこともしない。
ただ、ファイの身体を抱きしめていた。
ファイの震えが少しずつ小さくなっていく。
荒かった呼吸が、途切れ途切れになりながらも、少しずつ戻ってくる。
ブエンの肩に顔を押しつけたまま、ファイは何度も息を吸った。
泣きすぎて、うまく呼吸ができなかった。
それでも、ブエンがそこにいることだけは分かった。
ガルムが死んだことを、なかったことにはしてくれない。
でも、ファイを一人にもしていなかった。
やがて、ファイの手から少しだけ力が抜けた。
ブエンは、それを確かめてから低く言った。
「……少し、落ち着いたか」
まだ抱きしめたままだった。
ファイはすぐには答えられなかった。
喉が痛い。胸も痛い。目の奥が熱くて、顔を上げるだけでも力が要った。
それでも、ファイは少しだけ身体を離した。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。目元は赤く、頬にはまだ涙の跡が残っていた。
うまく息を吸えず、何度か小さくしゃくり上げる。
それでも、ファイはブエンを見た。
そして、ゆっくりとうなずいた。
ブエンは懐から布を取り出し、ファイの前に差し出した。
「拭け」
短い言葉だった。
けれど、声はさっきより少しだけ柔らかかった。
ファイは布を受け取った。
顔を拭こうとして、手が止まる。
布の端を握ったまま、膝の上に落とした。
指先が、まだ震えていた。
ブエンは椅子に座り直した。
さっきよりも、少しだけ近い。
机の角が、二人の間にある。
ファイは布を握ったまま、膝の上を見ていた。
「今話したことは、どちらも事実だ」
ブエンは言った。
「ガルム・ヴィンクルムは死んだ。お前の闇によって」
ファイの肩が、かすかに揺れた。
「そして、捕らえられていた者たちは全員無事だった」
ブエンは、同じ重さで言った。
「どちらか片方を、なかったことにするな」
ファイは布を握ったまま、黙って聞いていた。
「どちらも、お前が抱えることだ」
しばらく、何も聞こえなかった。
ファイは、布を握る手に力を込めた。
まだ震えている。
それでも、さっきよりは息ができた。
「ファイ」
ブエンは低く呼んだ。
「次は、お前の闇について話す」
闇。
その言葉だけで、胸の奥が少し冷える。
ブエンはファイの顔を見た。
泣き疲れた目。赤くなった鼻先。まだ震えの残る小さな手。
今聞かせるには、重い話だった。
けれど、何も知らないまま眠らせるには、もう遅すぎた。
「すべてを今理解しろとは言わない」
「……だが、お前は触れた。もう知らないままにはしておけない」
ファイは小さくうなずいた。
魔法には階位がある。
初級。
中級。
上級。
そして、最上級。
ファイも、その名前くらいは知っていた。
水を集める。
火を灯す。
風を流す。
土を固める。
訓練場で、何度も失敗した。
狙いがずれた。形が崩れた。息が続かなかった。
それでも少しずつ、魔法として形になっていった。
水も、火も、風も、土も。
初級なら出せるようになった。
防御魔法は、少し違っていた。
守りたいと思うと、形になった。
自分の前に壁が立つ。
誰かの前にも壁が立つ。
薄い膜は、やがて《ガード・ヴェール》になった。
それだけは、ファイにも分かっていた。
でも。
「闇は違う」
ファイは顔を上げた。
ブエンは、そこで目を逸らさなかった。
「闇属性そのものが悪いわけではない」
ブエンは言った。
「だが、最上級以上は別だ。闇の最上級以上は、術者の意識を呑む」
ファイの指が、布を握る。
「内側の闇が形を持ち、声を持ち、時には人格のように術者を押しのける。身体を奪う。判断を奪う。声を奪う」
ブエンはそこで一度だけ言葉を切った。
「だから禁じられている。力が大きいからではない。使った者が、自分のままでいられなくなるからだ」
ファイは、膝の上の布を握った。
さっきまで涙を拭くために渡された布だった。
今は、指の中で小さくしわになっている。
「お前は、その闇に触れた」
ブエンの声が続く。
「だが、戻ってきた」
ファイは顔を上げた。
「私を見て、私の名を呼んだ。それは事実だ」
ファイは、膝の上で布を握ったまま、しばらく何も言わなかった。
戻ってきた。
そう言われても、実感はなかった。
自分がどこへ行っていたのかも分からない。
ただ、あの黒の中で、何かに押しのけられた気がした。
何かに、身体の奥から触れられた気がした。
ファイの目が、少しだけ伏せられる。
「……声が、聞こえた」
「声?」
ファイはうなずいた。
布を握る手に、また力が入る。
「僕じゃない声だった。でも、外からじゃない」
ファイは、自分の胸元を見た。
「中から、聞こえた。オレって……言ってた」
そこで、声が一度詰まる。
「……殺してしまえよ、って」
言葉にした瞬間、足元に黒いものが戻ってくるような気がした。
「震えてるだけじゃ、何も守れない……」
ファイは布を握りしめた。
「オレがやる……って……」
言い終えたあと、ファイは顔を上げられなかった。
ブエンは黙っていた。
ファイが握りつぶしそうになっている布を、一度だけ見た。
「……分かった」
ファイが少しだけ顔を上げる。
「その声については、まだ分からないことが多い」
少しの沈黙。
「だが、ひとつだけ言える」
ブエンはファイを見る。
「恐れて封じ込めるだけでは足りない」
ファイの肩が、かすかに強張った。
「使いこなせ」
低い声だった。
命令だった。
けれど、突き放す声ではなかった。
「お前が力を使うのだ。力に使われるな」
ファイは、すぐにはうなずけなかった。
怖かった。
またあの声が聞こえたら。
また、自分ではないものが自分の口で魔法を唱えたら。
また、誰かが消えたら。
布を握る手が震える。
逃げたいと思った。
全部なかったことにして、布団をかぶって、何も聞こえないふりをしたかった。
でも。
子どもたちは生きていた。
さらわれた人たちは、全員無事だった。
ガルムは死んだ。
その全部が、本当だった。
ファイは布を握っていた手をゆっくり緩めた。
震えは止まらない。
それでも、顔を上げた。
ブエンを見る。
うなずこうとした。
一度目は、うまく動かなかった。
それでも、もう一度。
小さく、うなずいた。
ブエンはそれを見ていた。
「よし」
短い言葉だった。
だが、その声には、確かに認める響きがあった。
「なら、今日はここまでだ」
ファイの肩が、わずかに動く。
ブエンは立ち上がった。
「今のお前に必要なのは、これ以上の説明ではない。休息だ」
そこで一度、ファイを見る。
「だが忘れるな」
声が少し低くなる。
「今日聞いたことも、今日泣いたことも、なかったことにするな」
部屋の空気が、静かに沈む。
「それを抱えたまま、明日からまた立て」
ファイは、もう一度うなずいた。
涙で赤くなった目のまま。
それでも、今度は少しだけ、さっきより確かに。
ブエンは扉へ向かう。
ファイは椅子に座ったまま、自分の手を見た。
小さな手だった。
子どもたちを守った手。
命を奪った闇につながっている手。
まだ震えている。
ファイは、その手を握った。
震えは、止まらなかった。
それでも、離さなかった。




