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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第二章 守るための力
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第13話 戻ってきたもの

 医療室には、機械の小さな音だけが続いていた。


 ファイはベッドの上で眠っている。腕には細い光の線が浮かび、胸元の計測具が淡く明滅していた。


 ブエンは、そのそばに立っていた。


 手は、まだ剣の柄に置かれていた。


 ファイの呼吸は浅い。


 だが、乱れてはいない。


 まつげが、かすかに震えた。


 機械の音がひとつ、高く鳴る。


 ブエンは一歩だけ近づいた。


 ファイの目が、ゆっくりと開く。


 ぼんやりとした金色の瞳が、天井を見た。


 それから、横へ動く。


 ブエンは低く言った。


「……私のことが分かるか」


 ファイの唇が、少しだけ動いた。


 すぐには声にならなかった。乾いた喉が、小さく鳴る。


 それでも、ファイはブエンを見た。


 目の奥に、赤ではない、いつもの色が戻っている。


「……ブエン」


 その声を聞いた瞬間、ブエンの指がわずかに緩んだ。


 剣の柄から、ほんの少しだけ力が抜ける。


「……そうか」


 短い言葉だった。


 それ以上は言わなかった。


 ファイは瞬きをした。


 まだ状況が追いついていない顔だった。


 白い天井。


 身体の重さ。


 最後に聞こえた声。


 黒く沈んでいく床。


 欠けた記憶の端が、少しずつ戻ってくる。


 ファイの指が、布団を弱くつかんだ。


「……あの後……どうなったの?」


 ブエンはすぐには答えなかった。


 ファイの顔色を見る。


 呼吸を見る。


 機械の反応を見る。


 今、この白いベッドの上で背負わせるには、重すぎる言葉だった。


「今は起き上がるな」


 ブエンは静かに言った。


「任務のことは、落ち着いてから話す」


 ファイの目が揺れる。


「隠すつもりはない」


 ブエンは言葉を足した。


「だが、今ではない」


 ファイは何かを言いかけた。


 けれど、声にはならなかった。


 まぶたが重く落ちていく。


 眠りに引き戻される直前、ファイはもう一度ブエンを見た。


 ブエンは動かなかった。


 ただ、そこにいた。


 医療室の音が、少しずつ遠くなる。


 ファイは、もう一度眠った。




 次に目を覚ました時、医療室の灯りは少し明るくなっていた。


 身体の重さは残っている。


 けれど、さっきより息はしやすかった。


 ブエンは、ファイが目を開けたことに気づくと、静かに立ち上がった。


「起きられるか」


 ファイは小さくうなずいた。


 ブエンはすぐには手を出さなかった。


 ファイがベッドの縁に座り、足を下ろす。


 床に触れた足先が、少し震えた。


 立ち上がった瞬間、視界が揺れる。


 その時だけ、ブエンの腕が伸びた。


 ファイは一度だけ、その腕に指を添えた。


 すぐに離した。


「歩けるか」


「……うん」


 声は小さかった。


 ブエンはうなずいた。


「なら、場所を移す」


 廊下は静かだった。


 ブエンはファイの少し前を歩いた。


 速すぎない。


 振り返りすぎもしない。


 ファイの足音が遅れるたび、ほんの少しだけ歩幅を落とした。


 やがて、二人は小さな部屋に入った。


 窓はない。


 机と椅子が二つ。


 壁には余計な装飾も、記録用の端末もなかった。


 ブエンが扉を閉める。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


 ファイは椅子に座った。


 ブエンはもう一つの椅子を引いた。


 机の角を挟む位置だった。


「ファイ」


 ブエンの声は低かった。


 ファイが顔を上げる。


 ブエンは、一度だけ息を吸った。


「落ち着いて聞け」


 そこで言葉を切る。


「ガルム・ヴィンクルムは死んだ」


 音が、部屋の中で止まった気がした。


 ファイは瞬きをしなかった。


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。


 死んだ。


 その言葉だけが、少し遅れて胸の奥に落ちてくる。


 ブエンは目を逸らさなかった。


「お前の闇によって」


 ファイの手が、椅子の端を探した。


 指が触れる。


 でも、うまく握れなかった。


「……僕の……闇……?」


 声は、ほとんど息だった。


 喉の奥が乾いて、言葉がひっかかる。


 ブエンは答えなかった。


 その沈黙で、ファイは分かってしまった。


「僕が……」


 唇が震える。


「殺したの……?」


 ブエンは、すぐには言葉を返さなかった。


 否定しなかった。


 それだけで、十分だった。


 ファイの肩が、小さく震えた。


 一度。


 それから、もう一度。


 胸の奥から冷たいものが広がって、指先まで届いていく。


 息を吸おうとしても、うまく入ってこない。


「僕……」


 声が途切れた。


 身体が前に傾く。


 椅子から滑り落ちる、その直前。


 ブエンが膝をついた。


 ファイの身体を、両腕で抱き止めた。


 強い腕だった。


 剣を握る人の腕だった。


 けれど、思っていたより柔らかかった。


 装甲の硬さの奥に、ちゃんと体温があった。


 あたたかかった。


 ファイの震えが、その腕の中で大きくなる。


 逃げられないほど強いのではなかった。


 崩れてしまわないように、そこに留められている感じだった。


「勘違いするな」


 ブエンの声が、耳元で低く響いた。


「お前がしたことを、なかったことにはしない」


 ファイの身体が、びくっと揺れた。


 ブエンの腕に、少しだけ力がこもる。


「だが、それだけを見るな」


 ファイは顔を上げられなかった。


 ブエンの服に頬が触れている。


 少しだけ冷たい布地。


 その奥にある、あたたかい体温。


「捕らえられていた者たちは、全員無事だ」


 ファイの呼吸が止まった。


「子どもたちも、さらわれた者たちも、全員だ」


 言葉が、すぐには入ってこなかった。


 全員。


 無事。


 その意味を追いかけようとしても、頭の中がうまく動かない。


 死んだ。


 殺した。


 でも、助かった。


 言葉がばらばらに落ちてくる。


 どれを拾えばいいのか分からなかった。


「お前のおかげで、みんな帰れる」


 その一言だけは、まっすぐ胸の奥へ落ちた。


 帰れる。


 その響きに、ファイの指が震えた。


 帰り道。


 家。


 名前を呼ぶ声。


 失くしたと思っていたものの形が、ほんの少しだけそこにあった。


 だからこそ、痛かった。


 自分は、もうそこへ戻れないのだと、身体のどこかが知っていた。


 それでも。


 帰れる者がいる。


 帰してやれた者がいる。


 その事実が、胸の奥で小さく灯った。


「お前が守った」


 ブエンは、はっきりと言った。


 ファイの指が、ブエンの服に触れた。


 けれど、まだつかめなかった。


 震えているだけだった。


 ブエンは急がなかった。


 その小さな手が、何かを探すように布地の上で止まるまで、何も言わなかった。


 そして、もう一度だけ息を吸った。


「……よくやった、ファイ」


 その言葉は、静かだった。


 叱る声でも、慰める声でもなかった。


 ただ、そこに置かれた。


 ファイの胸の奥で、何かが切れた。


 こらえていたわけではなかった。


 泣かないようにしていたわけでもなかった。


 ただ、何を感じればいいのか分からなくて、身体だけが震えていた。


 でも。


 守れたものがあった。


 帰れる者がいた。


 それを、ブエンが見ていた。


 ちゃんと、言葉にしてくれた。


「う……」


 喉の奥から、音が漏れた。


 次の瞬間、ファイはブエンの服をつかんでいた。


 小さな手で、必死に。


 離したら、またどこかへ落ちてしまうみたいに。


「うあ……っ、ああ……!」


 声が崩れる。


 息がうまく吸えない。


 涙が、一気にあふれた。


「うああああああっ……!」


 泣き声が、部屋の壁にぶつかった。


 ガルムが死んだこと。


 自分の闇が命を奪ったこと。


 子どもたちが助かったこと。


 さらわれた人たちが全員無事だったこと。


 帰れる者がいること。


 自分は帰れないこと。


 全部が、本当だった。


 ひとつだけなら、まだ耐えられたのかもしれない。


 でも、全部だった。


 全部が同じ胸の中に入ってきて、ファイの中で形を保てなくなった。


 ブエンは離さなかった。


 泣き止めとも言わなかった。


 大丈夫だとも言わなかった。


 ただ、ファイの身体を抱きしめていた。


 強く。


 でも、痛くないように。


 ファイの額が、ブエンの肩に押しつけられる。


 涙で濡れた頬に、服の布地が触れる。


 そこは少し冷たくて、その奥はあたたかかった。


 ファイは、そのあたたかさにしがみついた。


 ブエンの手が、ファイの背中に回る。


 もう片方の手が、後頭部を支えた。


 大きな手だった。


 戦うための手だった。


 でも今は、ファイの頭を乱暴に動かさないように、そっと支えていた。


「泣け」


 低い声だった。


 命令のようで、許しのようでもあった。


「今は、それでいい」


 ファイは泣いた。


 声が枯れても、涙は止まらなかった。


 ブエンの服を握る手に、何度も力が入る。


 指先が白くなる。


 力が抜ける。


 また、握る。


 ブエンはそのたびに、少しだけ腕に力を込めた。


 ここにいる。


 落ちるな。


 そう言われているみたいだった。


 扉の外には誰もいない。


 この部屋には、ブエンとファイだけだった。

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