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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第二章 守るための力
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第9話 小さな壁

 訓練は、毎日続いた。


 朝、訓練場に立つ。

 走る。

 息が乱れる。

 姿勢を直される。

 魔法を出す。

 失敗する。

 また、やり直す。


 最初の数日は、それだけで一日が終わったような気がした。


 ファイは毎朝、ブエンに連れられて訓練場へ向かった。白い床。高い天井。壁際に並ぶ銀色の器具。最初に見た時はただ広くて怖かった場所が、少しずつ、毎日立つ場所になっていった。


「足を止めるな」


「はいっ」


「返事に力を使うな。走れ」


「……はい」


 走るのは、やっぱり苦手だった。


 胸はすぐ苦しくなるし、足はすぐ重くなる。ブエンは軽く走っているだけなのに、ファイだけが必死だった。


 それでも、二歩で吸って、二歩で吐くことを覚えた。


 苦しくなったら、短く吸って長く吐く。

 足が重くなったら、肩に力が入っていないか確かめる。


 速くなったわけではない。


 でも、すぐに崩れることは減っていった。


 昼には魔法の訓練があった。


 水を集める。

 火を灯す。

 風を流す。

 土を固める。


 ブエンは一つずつ見本を見せ、それからファイにやらせた。


 水の初級魔法は、手のひらほどの水弾として飛ぶようになった。火の初級魔法は、小さな火球として標的を焦がした。風の初級魔法は、布の標的を浅く切った。土の初級魔法は、低い壁を作るところまで届いた。


 どれも、最初のようにすぐ崩れるだけではない。


 ちゃんと魔法として形になっている。


 ブエンは標的を確認し、短くうなずいた。


「初級魔法としては成立している」


 ファイの顔が少し明るくなる。


「ほんと?」


「水、火、風、土。どれも形になっている。発動も、最初に比べればかなり安定した」


 ブエンはそこで、少しだけ声を硬くした。


「だが、実戦で使うにはもっと安定が必要だ。相手は待ってくれない。狙いが遅れれば外れる。迷えば潰される」


「……はい」


 ファイは少しだけ肩を落とした。


 ブエンは、その様子を見てから言った。


「……お前は筋が良い」


 ファイが顔を上げる。


「え?」


「数日でここまで初級魔法を形にできる者は多くない。そこは誇っていい」


 ファイは、ぱちぱちと瞬きをした。


「誇って……いいの?」


「だが、慢心するな」


「はい!」


「返事が大きい」


「……はい」


 ブエンは少し間を置いてから言った。


「次、防御」


 ファイはすぐに手を前に出した。


 防御魔法だけは、他の魔法と少し違っていた。


 水や火や風や土は、形を思い浮かべても、どこか遠かった。集めようとして、灯そうとして、流そうとして、固めようとして、ようやく応えてくれる。


 でも、防御魔法は違う。


 守りたい。


 そう思うと、胸の奥から、まっすぐ手の前へ伸びていくものがあった。


「唱えろ」


 ブエンが言った。


「形だけで出すな。言葉にして、魔力の向きを決めろ」


 ファイは小さく息を吸った。


 蓮の顔を思い浮かべる。

 お母さんとお父さんの声を思い出す。


 守る。


 そのための壁。


 ファイは手を前に出し、はっきりと言った。


「――《ヴェール》」


 透明な膜が、ファイの前に浮かんだ。


 最初は薄かった。


 けれど、何度も繰り返すうちに、その膜は少しずつ厚くなっていった。


 正面だけ。

 自分の前だけ。

 手の届く範囲だけ。


 それでも、ファイの前には、確かに透明な壁が立つようになった。


 ブエンが木剣を構える。


「保て」


「はい」


 ファイは息を吸う。


「――《ヴェール》」


 木剣が振られた。


 防御膜が大きく揺れる。


 けれど、崩れない。


 二撃目も耐えた。

 三撃目で、膜に細いひびのような光が走り、ぱん、と弾けた。


「三回……」


「前回は二回で崩れた。伸びている」


 ファイは目を丸くした。


「伸びてる……?」


「そうだ。他の魔法とは明らかに違う。初級の範囲を越え始めている」


「初級じゃないの?」


「届きかけている。中級にな」


 ファイは自分の手を見た。


 中級と言われても、よく分からない。


 ただ、守ろうとしただけだった。


「水や火より、こっちの方がやりやすいか」


 ファイは少し考えた。


「うん。守るって思うと、やりやすい」


「そうか」


 ブエンは少しだけ目を細めた。


 それ以上は何も言わなかった。


 けれど、その日から、防御魔法の訓練だけは少し増えた。


 正面に壁を作る。

 横からの攻撃に合わせて角度を変える。

 少し離れた位置に壁を出す。

 隊員が放った初級魔法を防ぐ。


 失敗もした。


 壁の位置がずれた。風魔法に足を取られて転んだ。間に合わなかったこともある。


 それでも、ファイは立ち上がった。


「もう一回」


 何度もそう言った。


 ブエンは甘やかさなかった。


「迷ったら遅れる。遅れたら守れん」


「……はい」


 言葉は厳しかった。


 けれど、ブエンはファイが転ぶたびに見ていた。


 怪我をしていないか。

 呼吸が乱れすぎていないか。

 恐怖で固まっていないか。


 ブエンは、できないことを責めているのではない。


 できるようになるまで、逃がさないだけだ。


 ある日の午後。


 隊員に向かって、初級の火球が放たれた。


 ファイは一瞬だけ息を吸った。


 守る。


 今度は、自分の前ではない。


 あの人の前に。


 火球の軌道を見て、手を伸ばす。


「――《ヴェール》」


 そう唱えたつもりだった。


 けれど、現れた壁は、いつもの薄い膜とは違っていた。


 透明な光が厚みを持ち、隊員の前にしっかりと立つ。


 火球がぶつかり、弾けた。

 炎の破片が散り、空気が熱く揺れる。


 けれど、隊員には届かなかった。


「できた……」


 ブエンは、防御膜が消えた場所を見ていた。


 少しだけ沈黙する。


「今のは、初級魔法ではない」


 ファイは振り返った。


「え?」


「中級防御魔法、《ガード・ヴェール》だ」


 ファイは、自分の手を見る。


「中級……?」


「そうだ。水、火、風、土は初級まで。だが、防御だけは中級に届いた」


 ファイはまだ、よく分かっていない顔をしていた。


「僕、ただ守ろうとしただけだよ」


 ブエンは少しだけ目を細める。


「だからだろうな」


 ブエンはそれ以上、説明しなかった。


「今の距離で間に合うなら、実戦でも一度は使える」


 ファイは顔を上げる。


「ほんと?」


「一度は、だ。二度目が間に合うとは限らん。相手が初級で撃ってくるとも限らん。守る対象が一人とも限らん」


「はい」


「だが、今のは悪くない」


 ファイの顔が、ぱっと明るくなった。


「はい!」


「喜ぶのは早い。次は二人分だ」


「えっ」


「守りたい者が一人とは限らんと言っただろう」


「……はい!」


 そうして、また訓練が続いた。


 気づけば、ファイが銀河連邦に来てから、二週間近くが過ぎていた。


 地球の朝や夜とは違う時間。

 見慣れない空。

 知らない食べ物。

 聞いたことのない言葉。


 それでも、訓練場に立つことだけは、少しずつ日常になっていた。


 ファイはまだ、強くなったとは思えなかった。


 走れば息が切れる。

 魔法を使えば、集中が乱れる。

 水も、火も、風も、土も、初級なら出せるようにはなった。


 けれど、狙いが少しずれる。

 連続で使うと息が乱れる。

 咄嗟に出そうとすると、まだ一瞬遅れる。


 それでも、何もできなかった頃とは違う。


 自分の手から、魔法が出る。


 自分の前に、壁が立つ。


 守りたいと思えば、形になる。


 それだけは、少しずつ分かってきた。


 その日の訓練が終わった後、ファイは訓練場の端で水を飲んでいた。


 足はだるい。

 腕も重い。


 でも、前ほど気持ちは沈んでいなかった。


 ブエンは少し離れた場所で、端末を見ていた。

 訓練記録だろうか。


 ファイはなんとなく、そこに映る文字を見ようとして、すぐにやめた。


 読めない。


 宇宙の文字は、まだ難しかった。


 その時、訓練場の扉が開いた。


 銀色の装甲を着た隊員が入ってくる。


「ブエン隊長」


 ブエンが顔を上げた。


「何だ」


 隊員は一瞬、ファイの方を見た。


 それから、少し声を落とす。


「地球で回収された襲撃者たちの装備と通信痕跡について、解析結果が出ました」


 ファイの手が止まった。


 地球。


 襲撃者。


 その言葉だけで、胸の奥がきゅっと固くなる。


 ブエンの表情が変わった。


「続けろ」


「末端部隊のものです。本体と思われる組織の通信中継地点が、辺境星域で確認されました。同じ識別信号が、他の失踪事件にも関与している可能性があります」


 ファイは、ゆっくり顔を上げた。


 失踪事件。


 誰かが、連れていかれている。


 あの日の蓮の顔が浮かぶ。


 公園。

 知らない男たち。

 伸ばされた手。

 動かなかった身体。


 ブエンは端末を受け取り、目を細めた。


「被害者は」


「確認中です。ただ、子どもを含む住民の行方不明記録が複数あります」


 ファイの呼吸が、止まった。


 ブエンは何も言わず、端末を閉じた。


 隊員が退室する。


 訓練場に、静けさが戻る。


 けれど、さっきまでの静けさとは違っていた。


 ファイは、手に持っていた水の容器を握りしめた。


 あの時、自分は蓮を守りたかった。


 でも、今もどこかで。


 誰かが、連れていかれているかもしれない。


 ブエンがゆっくりファイを見る。


 ファイは、顔を上げた。


「……その子たち、まだ怖い思いしてるの?」


 ブエンはすぐには答えなかった。


 沈黙が、答えの代わりみたいだった。


 ファイの手に、力が入る。


「助けに行くんだよね」


「これは銀河連邦の任務だ」


 ブエンの声は低かった。


「お前の任務ではない」


 ファイは、一度だけ唇を結んだ。


 怖くないわけではなかった。


 あの日の公園を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。


 知らない男たち。

 伸ばされた手。

 動かなかった身体。

 蓮の声。


 でも、今までにない気持ちがあった。


 怖いのに、逃げたいだけじゃない。


 守りたい。

 助けたい。


 その気持ちに、嘘をつきたくなかった。


 ファイは、ブエンをまっすぐ見た。


「僕も行く」

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