第9話 小さな壁
訓練は、毎日続いた。
朝、訓練場に立つ。
走る。
息が乱れる。
姿勢を直される。
魔法を出す。
失敗する。
また、やり直す。
最初の数日は、それだけで一日が終わったような気がした。
ファイは毎朝、ブエンに連れられて訓練場へ向かった。白い床。高い天井。壁際に並ぶ銀色の器具。最初に見た時はただ広くて怖かった場所が、少しずつ、毎日立つ場所になっていった。
「足を止めるな」
「はいっ」
「返事に力を使うな。走れ」
「……はい」
走るのは、やっぱり苦手だった。
胸はすぐ苦しくなるし、足はすぐ重くなる。ブエンは軽く走っているだけなのに、ファイだけが必死だった。
それでも、二歩で吸って、二歩で吐くことを覚えた。
苦しくなったら、短く吸って長く吐く。
足が重くなったら、肩に力が入っていないか確かめる。
速くなったわけではない。
でも、すぐに崩れることは減っていった。
昼には魔法の訓練があった。
水を集める。
火を灯す。
風を流す。
土を固める。
ブエンは一つずつ見本を見せ、それからファイにやらせた。
水の初級魔法は、手のひらほどの水弾として飛ぶようになった。火の初級魔法は、小さな火球として標的を焦がした。風の初級魔法は、布の標的を浅く切った。土の初級魔法は、低い壁を作るところまで届いた。
どれも、最初のようにすぐ崩れるだけではない。
ちゃんと魔法として形になっている。
ブエンは標的を確認し、短くうなずいた。
「初級魔法としては成立している」
ファイの顔が少し明るくなる。
「ほんと?」
「水、火、風、土。どれも形になっている。発動も、最初に比べればかなり安定した」
ブエンはそこで、少しだけ声を硬くした。
「だが、実戦で使うにはもっと安定が必要だ。相手は待ってくれない。狙いが遅れれば外れる。迷えば潰される」
「……はい」
ファイは少しだけ肩を落とした。
ブエンは、その様子を見てから言った。
「……お前は筋が良い」
ファイが顔を上げる。
「え?」
「数日でここまで初級魔法を形にできる者は多くない。そこは誇っていい」
ファイは、ぱちぱちと瞬きをした。
「誇って……いいの?」
「だが、慢心するな」
「はい!」
「返事が大きい」
「……はい」
ブエンは少し間を置いてから言った。
「次、防御」
ファイはすぐに手を前に出した。
防御魔法だけは、他の魔法と少し違っていた。
水や火や風や土は、形を思い浮かべても、どこか遠かった。集めようとして、灯そうとして、流そうとして、固めようとして、ようやく応えてくれる。
でも、防御魔法は違う。
守りたい。
そう思うと、胸の奥から、まっすぐ手の前へ伸びていくものがあった。
「唱えろ」
ブエンが言った。
「形だけで出すな。言葉にして、魔力の向きを決めろ」
ファイは小さく息を吸った。
蓮の顔を思い浮かべる。
お母さんとお父さんの声を思い出す。
守る。
そのための壁。
ファイは手を前に出し、はっきりと言った。
「――《ヴェール》」
透明な膜が、ファイの前に浮かんだ。
最初は薄かった。
けれど、何度も繰り返すうちに、その膜は少しずつ厚くなっていった。
正面だけ。
自分の前だけ。
手の届く範囲だけ。
それでも、ファイの前には、確かに透明な壁が立つようになった。
ブエンが木剣を構える。
「保て」
「はい」
ファイは息を吸う。
「――《ヴェール》」
木剣が振られた。
防御膜が大きく揺れる。
けれど、崩れない。
二撃目も耐えた。
三撃目で、膜に細いひびのような光が走り、ぱん、と弾けた。
「三回……」
「前回は二回で崩れた。伸びている」
ファイは目を丸くした。
「伸びてる……?」
「そうだ。他の魔法とは明らかに違う。初級の範囲を越え始めている」
「初級じゃないの?」
「届きかけている。中級にな」
ファイは自分の手を見た。
中級と言われても、よく分からない。
ただ、守ろうとしただけだった。
「水や火より、こっちの方がやりやすいか」
ファイは少し考えた。
「うん。守るって思うと、やりやすい」
「そうか」
ブエンは少しだけ目を細めた。
それ以上は何も言わなかった。
けれど、その日から、防御魔法の訓練だけは少し増えた。
正面に壁を作る。
横からの攻撃に合わせて角度を変える。
少し離れた位置に壁を出す。
隊員が放った初級魔法を防ぐ。
失敗もした。
壁の位置がずれた。風魔法に足を取られて転んだ。間に合わなかったこともある。
それでも、ファイは立ち上がった。
「もう一回」
何度もそう言った。
ブエンは甘やかさなかった。
「迷ったら遅れる。遅れたら守れん」
「……はい」
言葉は厳しかった。
けれど、ブエンはファイが転ぶたびに見ていた。
怪我をしていないか。
呼吸が乱れすぎていないか。
恐怖で固まっていないか。
ブエンは、できないことを責めているのではない。
できるようになるまで、逃がさないだけだ。
ある日の午後。
隊員に向かって、初級の火球が放たれた。
ファイは一瞬だけ息を吸った。
守る。
今度は、自分の前ではない。
あの人の前に。
火球の軌道を見て、手を伸ばす。
「――《ヴェール》」
そう唱えたつもりだった。
けれど、現れた壁は、いつもの薄い膜とは違っていた。
透明な光が厚みを持ち、隊員の前にしっかりと立つ。
火球がぶつかり、弾けた。
炎の破片が散り、空気が熱く揺れる。
けれど、隊員には届かなかった。
「できた……」
ブエンは、防御膜が消えた場所を見ていた。
少しだけ沈黙する。
「今のは、初級魔法ではない」
ファイは振り返った。
「え?」
「中級防御魔法、《ガード・ヴェール》だ」
ファイは、自分の手を見る。
「中級……?」
「そうだ。水、火、風、土は初級まで。だが、防御だけは中級に届いた」
ファイはまだ、よく分かっていない顔をしていた。
「僕、ただ守ろうとしただけだよ」
ブエンは少しだけ目を細める。
「だからだろうな」
ブエンはそれ以上、説明しなかった。
「今の距離で間に合うなら、実戦でも一度は使える」
ファイは顔を上げる。
「ほんと?」
「一度は、だ。二度目が間に合うとは限らん。相手が初級で撃ってくるとも限らん。守る対象が一人とも限らん」
「はい」
「だが、今のは悪くない」
ファイの顔が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
「喜ぶのは早い。次は二人分だ」
「えっ」
「守りたい者が一人とは限らんと言っただろう」
「……はい!」
そうして、また訓練が続いた。
気づけば、ファイが銀河連邦に来てから、二週間近くが過ぎていた。
地球の朝や夜とは違う時間。
見慣れない空。
知らない食べ物。
聞いたことのない言葉。
それでも、訓練場に立つことだけは、少しずつ日常になっていた。
ファイはまだ、強くなったとは思えなかった。
走れば息が切れる。
魔法を使えば、集中が乱れる。
水も、火も、風も、土も、初級なら出せるようにはなった。
けれど、狙いが少しずれる。
連続で使うと息が乱れる。
咄嗟に出そうとすると、まだ一瞬遅れる。
それでも、何もできなかった頃とは違う。
自分の手から、魔法が出る。
自分の前に、壁が立つ。
守りたいと思えば、形になる。
それだけは、少しずつ分かってきた。
その日の訓練が終わった後、ファイは訓練場の端で水を飲んでいた。
足はだるい。
腕も重い。
でも、前ほど気持ちは沈んでいなかった。
ブエンは少し離れた場所で、端末を見ていた。
訓練記録だろうか。
ファイはなんとなく、そこに映る文字を見ようとして、すぐにやめた。
読めない。
宇宙の文字は、まだ難しかった。
その時、訓練場の扉が開いた。
銀色の装甲を着た隊員が入ってくる。
「ブエン隊長」
ブエンが顔を上げた。
「何だ」
隊員は一瞬、ファイの方を見た。
それから、少し声を落とす。
「地球で回収された襲撃者たちの装備と通信痕跡について、解析結果が出ました」
ファイの手が止まった。
地球。
襲撃者。
その言葉だけで、胸の奥がきゅっと固くなる。
ブエンの表情が変わった。
「続けろ」
「末端部隊のものです。本体と思われる組織の通信中継地点が、辺境星域で確認されました。同じ識別信号が、他の失踪事件にも関与している可能性があります」
ファイは、ゆっくり顔を上げた。
失踪事件。
誰かが、連れていかれている。
あの日の蓮の顔が浮かぶ。
公園。
知らない男たち。
伸ばされた手。
動かなかった身体。
ブエンは端末を受け取り、目を細めた。
「被害者は」
「確認中です。ただ、子どもを含む住民の行方不明記録が複数あります」
ファイの呼吸が、止まった。
ブエンは何も言わず、端末を閉じた。
隊員が退室する。
訓練場に、静けさが戻る。
けれど、さっきまでの静けさとは違っていた。
ファイは、手に持っていた水の容器を握りしめた。
あの時、自分は蓮を守りたかった。
でも、今もどこかで。
誰かが、連れていかれているかもしれない。
ブエンがゆっくりファイを見る。
ファイは、顔を上げた。
「……その子たち、まだ怖い思いしてるの?」
ブエンはすぐには答えなかった。
沈黙が、答えの代わりみたいだった。
ファイの手に、力が入る。
「助けに行くんだよね」
「これは銀河連邦の任務だ」
ブエンの声は低かった。
「お前の任務ではない」
ファイは、一度だけ唇を結んだ。
怖くないわけではなかった。
あの日の公園を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
知らない男たち。
伸ばされた手。
動かなかった身体。
蓮の声。
でも、今までにない気持ちがあった。
怖いのに、逃げたいだけじゃない。
守りたい。
助けたい。
その気持ちに、嘘をつきたくなかった。
ファイは、ブエンをまっすぐ見た。
「僕も行く」




