第8話 守る壁
翌朝、ファイは訓練場に立っていた。
医療室とは違う、広い空間だった。床は白く、天井は高い。壁際には見たことのない器具が並び、遠くには銀色の装甲を着た隊員たちの姿もある。
誰かに何かを言われたわけではない。
それでも、見られている気がした。
ファイは、そっと自分の手を握った。
昨日、自分の足元に黒いものが広がった。
あれが何なのか、まだ分からない。分からないものが自分の中にあると言われても、どうすればいいのか分からなかった。
けれど、逃げるわけにはいかない。
蓮を守りたかった。
お母さんとお父さんのところへ帰りたかった。
そのために、知らなければならないことがある。
「ここに立て」
ブエンの声がした。
ファイは言われた場所に立った。
ブエンは訓練場の中央にいた。腰には剣がある。医療室で見た時よりも、ずっと厳しく見えた。
「足を開け」
ファイは慌てて足を動かした。
「広い。戻せ」
「……はい」
「下を見るな。前を見ろ」
ファイは顔を上げた。
ブエンは、ファイの姿勢を見ていた。
「まず、自分の身体を知れ」
「身体……?」
「魔力の前に、足だ。呼吸だ。姿勢だ」
ブエンの声は硬かった。
「お前が立てていないのに、力だけ扱えると思うな」
ファイは、ごくりと喉を鳴らした。
「十呼吸。崩すな」
ファイは息を吸った。
胸が少し震える。
蓮の顔が浮かんだ。公園で、自分の前に立とうとした蓮。逃げろと言った蓮。
それから、お母さんとお父さん。
名前を呼んでくれる声。家の匂い。いつも通りだった場所。
守りたい。
その気持ちが胸の奥に落ちた時、少しだけ呼吸が深くなった。
ファイは、足の裏で床を感じた。膝は震えている。けれど、崩れてはいない。
ブエンが目を細める。
「……今の感覚を覚えろ」
ファイは小さくうなずきそうになった。
「うなずくな。姿勢が崩れる」
「……はい」
ブエンはしばらく黙って見ていた。
「よし」
その一言で、ファイの肩の力が少しだけ抜けた。
けれど、ブエンはすぐに訓練場の先を指した。
「走るぞ」
ファイは目を丸くした。
「え、走るの?」
「当然だ」
ブエンはもう歩き出していた。
「魔力の前に身体だ。ついて来い」
そう言うと、ブエンは軽く走り出した。
ファイは一瞬だけ戸惑った。
でも、すぐに唇を結ぶ。
「……よし」
小さくそう言って、ファイも走り出した。
最初は、なんとかついていけた。
けれど、半周もしないうちに息が上がり始めた。足が重くなる。胸の奥が痛い。喉が熱い。
「はっ……はっ……」
ブエンは、すぐ横を走っていた。
速すぎるわけではない。けれど、まったく乱れていない。足音も、呼吸も、一定だった。
「息を乱すな」
ブエンが言った。
「走る時も集中しろ」
ファイは返事をする余裕がなかった。
それでも、足は止めなかった。
蓮。
お母さん。
お父さん。
守りたい。
その気持ちだけで、前へ進んだ。
ただ必死に走っているだけでは苦しかった。ファイは、走りながら少しずつ呼吸を変えてみた。
二歩で吸って、二歩で吐く。
まだ苦しい。
短く吸って、長く吐く。
少しだけ、胸の痛みがましになった。
「はっ……ふぅ……はっ……ふぅ……」
ブエンが横目で見る。
「そうだ。自分の呼吸を探せ」
ファイは汗をにじませながら、必死に足を出した。
速くはない。
何度も遅れそうになった。
それでも、止まらなかった。
最後の一周を終えた時、ファイはその場に倒れ込みそうになった。けれど、なんとか膝に手をついて踏みとどまる。
息がうまく吸えない。
足がじんじんする。
頭も少しぼんやりした。
ブエンはファイの前に立った。
「よく走った、とは言わん」
ファイは肩で息をしながら、顔を上げた。
「だが、途中でよく工夫した。それは悪くない」
ブエンは手のひらを上に向けた。
「次だ」
「まだ……あるの……?」
「当然だ」
ブエンの手の上に、小さな水の球が浮かんだ。
「これを出してみろ」
ファイは目をぱちくりさせる。
「どうやって……?」
「まず形を思い浮かべろ」
水球が、ブエンの手の上で静かに揺れた。
「水なら、集める。火なら、灯す。風なら、流す。土なら、固める」
「集める……」
「そうだ。だが、力任せに出すな。さっきの呼吸を使え」
ブエンはファイの手元を見た。
「吸って、形を思い浮かべる。吐いて、外へ出す」
ファイは自分の手を見た。
息を吸う。
水を、集める。
そう思った。
指先のあたりが、少し冷たくなった気がした。空気の中にある見えないものが、ほんの少しだけ寄ってくる。
小さな水の粒が、ふわりと浮いた。
「……できた」
その瞬間、水の粒はぱしゃっと崩れた。
ファイは慌てて手を引く。
ブエンは表情を変えなかった。
「今のでいい。もう一度だ」
ファイは何度も試した。
水は、指先で冷たく震えて、すぐに落ちた。
火は、小さく灯って、瞬きの間に消えた。
風は、手のひらをかすめるように生まれて、すぐにほどけた。
どれも、何も出ないわけではなかった。
でも、形にはなりきらない。
掴もうとした瞬間に、するりと逃げていくみたいだった。
ファイは汗を拭った。
「すぐ消えちゃう……」
「最初はそれでいい」
ブエンは短く言った。
「形にはなっている。だが、まだ弱い。呼吸、姿勢、意識、そのどれかが崩れれば消える」
ファイは自分の手を見つめた。
魔法は、思っていたより難しかった。
出せばいいだけではない。
思っただけでも、力を込めただけでも、形にはならない。
ブエンは少し間を置いてから言った。
「次だ」
ファイは顔を上げる。
「自分の前に、薄い壁を作れ」
「壁?」
「防御魔法だ」
ブエンの声が、少しだけ重くなった。
「守りたいものを、前に置くつもりでやってみろ」
ファイは、手を前に出した。
蓮の顔を思い浮かべる。
お母さんとお父さんの声を思い出す。
公園で届かなかった手。
地球に残してきたもの。
帰りたい場所。
守りたい。
胸の奥で、その思いが強くなる。
守りたい。
守りたい。
守りたい。
息を吸う。
今度は、何かを集める感じではなかった。
自分の前に、ここから先へ行かせない場所を作る。
誰かが傷つかないように、間に立つものを作る。
息を吐いた瞬間、ファイの前に光が集まった。
薄い膜だった。
けれど、水や火や風のように崩れない。
透明な壁が、静かにそこに立っていた。
ファイは目を見開いた。
「……できた」
ブエンは、防御膜の前に立った。
「動かすな」
ファイは息を止めそうになって、慌てて吸った。
ブエンが指先で、防御膜を軽く弾く。
澄んだ音がした。
水でも、火でも、風でもない。
けれど確かに、そこに形があった。
ブエンは今度、手の甲で少し強く打った。
防御膜が大きく揺れる。
ファイの肩も一緒に跳ねた。
けれど、膜は崩れなかった。
透明な光は、震えながらも、ファイの前に残っていた。
ブエンはしばらく黙ってそれを見ていた。
「悪くない。初歩の防御としては、なかなかいい」
ファイは目を丸くした。
褒められたのか、まだ注意されているのか、すぐには分からなかった。
その顔を見て、ブエンがふっと笑った。
ほんの少しだけだった。
「よくやった」
その言葉で、ファイの胸の奥がふわっと緩んだ。
防御膜が、光の粒になって消える。
ファイはそれを見つめたまま、小さく息を吐いた。
ブエンは、剣の柄から手を離した。
「今日はここまでにしよう」
ファイは、まだ少し息を切らしながら、こくりとうなずいた。
足は疲れていた。
腕も重かった。
魔法も、まだ全然うまく使えない。
それでも、ひとつだけ分かった。
自分の中には、壊す力だけがあるわけではない。
守るための形も、ちゃんと作れる。
ファイは、消えた防御膜のあった場所を見つめた。
そこにはもう何もない。
けれど、確かにさっきまで、自分の前に壁があった。
誰かを守りたいと思って作った、初めての魔法だった。




