33 もう一人の少女
翌朝。
いつもより少し早く白鳩荘の部屋に光が差し込んだ。
ARIEL端末の青いランプがゆっくりと点滅する。
俺はその前で腕を組みながら、半分寝ぼけたまま呟いた。
「……澪、起きてるか?」
静寂。
光の粒がふわっと空中に舞った。
その中から、澪が現れる。
「おはよう、観測者」
いつもの声。
でも――どこか違う。
言葉のトーンが落ち着いていて、まるで『研究発表』の始まりみたいだ。
「お、おはよう。体調は?」
「数値的には良好。精神層も安定傾向」
「数値で返すなよ」
「……冗談」
「え、今のジョーク!?」
「成功率37%」
「成功しちゃったよ! しかも懲りずに数値かっ!」
思わずツッコむ。
それに対して澪は静かに小さく笑った。
「でも、少し安心した」
「何が?」
「あなたのツッコミが、まだ『あたたかい』」
「……それ誉めてるの?」
「うん。あの世界では……ちょっと、寒かったから」
その一言に、昨日の光景がフラッシュバックする。
――あの『光の海』。
もう一人の澪を探して潜り、NEMESISの影に遭遇した場所。
「昨日のこと、覚えてるのか?」
「断片的に。……でも、不思議と怖くはない。まるで夢を見てたみたい」
そう言いながら、彼女はちゃぶ台の前に座った。
その動作もどこか、いつもより滑らかで優雅。
まるで、上品な令嬢がふと庶民の暮らしを楽しんでいるようだった。
「なあ、澪」
「なに?」
「……お前、少し変わったな」
「そう?」
「うん。言葉選びとか、仕草とか。なんか……『距離』を感じる」
「距離?」
「ほら、前なら『観測者バカ』ってすぐ言ってたのに」
「今も思ってる」
「言えよ!」
「発言のリスク分析中」
「AIみたいな返答すんな! しれっとボケろよ!」
ほのかがドアをノックして顔を出した。
「おー、澪。目覚めたね」
「うん。おはよう、ほのか」
「体調は?」
「安定。観測者が心配してくれた」
「へぇ〜、珍しいじゃん。悠真くんが心配とか」
「おいっ」
「でも……澪、少し雰囲気違うね」
「それ、観測者にも言われた」
「うん。『綺麗になった』って感じ」
「お、おい!?」
「違う?」
「いや……正直、思った」
「素直でよろしい」
「……観測者、動揺パターン観測」
「分析すんな!」
笑いながらも、澪の表情にはわずかに陰が差していた。
「ねえ、ほのか」
「ん?」
「もし、私が『完全にひとつ』になったら……どうなるんだろう」
「人格統合が進めば、記憶と感情の境界が消える。つまり、『本当の白瀬澪』になるんだと思う」
「本当の……」
その言葉を繰り返したあと、澪は小さく首を振って笑った。
「それって『いまの私』が消えるってことでもあるのかな」
「そんなこと言うなよ」
「……ふふ。観測者、優しいね」
「いや、優しくねぇよ。面倒くさい性格なだけだ」
「でも、そういうの嫌いじゃない」
「やめろ、真顔で言うな!」
「観測者、照れ反応――0.7秒」
「計測するな!」
ARIELの光がふっと強まる。
《core merge: 65%》
《emotional sync: stable》(感情同期:安定)
「……ねえ悠真」
「ん?」
「私ね、今まで『観測される側』だと思ってた」
「?」
「でも、あなたを見てるうちに、『観測する側』になってることに気づいた」
「……それって」
「つまり、ツッコミたいの。あなたの全部に」
「いきなり!? ちょ、心の準備がっ!」
「観測者理論、伝染」
「俺ってほんとウィルスみたいなやつぅっ!!」
そんなふうに笑い合う空気の中、澪の輪郭が一瞬だけ微かにノイズを走らせた。
それを、ほのかが見逃さない。
「……やっぱり、『中』が動いてる」
「中?」
「NEMESIS、まだ生きてる。しかも、澪の『感情データ』を伝ってる」
澪の笑顔がわずかに強張った。
「大丈夫。……私、もう逃げない」
そう言って立ち上がるその姿は、たしかに『もう一人の白瀬澪』を重ねたように見えた。
*
その夜、雨が降っていた。
白鳩荘の屋根を叩く音が、まるで小さなドラムのように一定のリズムを刻んでいる。
静かなのに、やけに胸の奥に響く。
「……雨の日って、落ち着かないな」
「湿度のせい?」
「いや……なんか、『思い出す音』って感じがして」
「ふうん。詩的ね」
「珍しく褒められた」
「観測者、3ポイント加算」
「スコア制なの!?」
ちゃぶ台の前で、澪が静かにARIELの画面を見つめていた。
彼女の指先が微かに震えている。
「澪?」
「……ちょっと、変なの。頭の奥に、知らない映像が浮かぶの」
「映像?」
「うん。誰かの手。白い部屋。……それと、『逃げて』って声」
雨音が、一瞬だけ遠のいたように感じた。
ほのかが顔を上げる。
「それ、記憶の断片かも。ARIEL内部の『抑制領域』が溶け始めてるんだよ」
「抑制……領域?」
「澪の意識を守るために、EIDOLONが『過去の記憶』をロックしてたの。でも、統合が進んで解除され始めた」
「つまり……思い出してるんだな」
澪は小さく頷いた。
「でも、不思議なの。映像が途切れ途切れで……音も、すごく遠いの。まるで水の底で聞いてるみたい」
その言葉に、雨の音が妙にリアルに響いた。
澪の姿がゆっくりと薄く光る。
ARIELの青い光が部屋の中を漂い、やがて澪の背後に『映像』を浮かび上がらせた。
そこには、白衣を着た少女――澪がいた。
同じ顔。けれど、今よりずっと鋭い目。
「……あれが、私?」
「間違いない。……白瀬澪、研究者時代の映像」
「場所は?」
「恐らく、研究施設EIDOLON第零ラボ。『感情再現実験』を行ってた頃ね」
映像の中の澪はモニタ越しに誰かと話していた。
ノイズ混じりの声が、断片的に聞こえる。
『――データは?』
『転送完了。……でも、彼女が――』
『白瀬澪を確保しろ! 研究データを奪われるな!』
別の声が聞こえた瞬間、画面に激しくノイズが走った。
照明が落ち、悲鳴が響く。
「……やめてっ!」
現実の澪が思わず耳を塞ぐ。
その反応があまりにも生々しくて、俺は思わず立ち上がった。
「澪!」
「……っ、だいじょぶ……」
「もういい、無理すんな!」
「違うの……私、思い出したいの」
雨音が強くなる。
まるで記憶の中のノイズとシンクロしているかのように。
《core memory fragment: retrieved》(コアメモリフラグメント: 取得済み)
《subject: ARIEL project / incident day》(件名: ARIEL計画 / 事件発生日)
映像が、再び形を取る。
逃げる白瀬澪。
血の跡。
そして、もう一人の少女が彼女の手を掴んでいた。
『走って! 澪!』
澪の瞳が大きく見開かれた。
「――『あの子』だ」
「『あの子』?」
「私を助けてくれた子。……名前は、思い出せないけど……」
少女の言葉を最後に、映像がぷつりと途切れる。
雨音だけが残った。
沈黙。
やがて、ほのかが小さく息をついた。
「その子……おそらく、EIDOLONの『サブ開発者』。澪の右腕だった女の子」
「今も、生きてるのか?」
「可能性はある。……でも、敵に捕まってるかも」
俺は拳を握りしめた。
何か、胸の奥がざわついて仕方なかった。
「澪。お前、もう無理に思い出そうとするな。そんな苦しいなら、俺たちが探す」
「……でも、これは私の過去。私が向き合わなきゃ、また誰かを巻き込む」
「巻き込むって……」
「だって、NEMESISが狙ってるのは『私』だから」
その声はいつになく冷静で、静かだった。
けれど、その奥には確かな決意があった。
ほのかが言葉を探すようにして、ぽつりと呟いた。
「……澪。思い出したその子、名前は?」
「ううん、まだ……でも」
澪がARIELの端末に触れる。
画面に、文字がひとつ浮かび上がった。
《codename: Lyra》
「『ライラ』……?」
「……あの子が、私を助けてくれたの……?」
そう言った澪の瞳は、まるで過去と現在を同時に映しているように澄んでいた。
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