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31 味覚補正アルゴリズム

 朝の白鳩荘。


 焼けたトーストの香りと、電子ノイズが同時に漂っていた。


 つまり、今日も俺のルームシェア幽霊は絶好調だ。


「……澪、パン焼きすぎ。前はもっと手際よくなかった?」


「観測者、文句が多い」


「いや、これ炭だろ。焦げというより炭」


「カーボン系栄養素」


「そんな健康志向いらねぇ!」


 ちゃぶ台に並ぶトーストを前に、俺と澪の朝が始まった。


 その横で、ほのかがARIELの端末をいじりながら笑っている。


「なんかさー、見てて思うんだけど」


「なに」


「あんたら、夫婦(めおと)漫才みたい」


「誰が夫婦だ!」


「観測者=夫、被観測者=妻。自然な構造」


「本人が自慢げに言うな!」


 俺がそんなツッコミをしながらも、澪はどこかぼんやりしていた。


 パンをかじる動作の途中で止まり、小さくつぶやく。


「……ねえ悠真。夢って、データに保存されるのかな」


「夢?」


「うん。昨日の夜、変な夢を見たの」


「どんな?」


「知らない私が、私を見てた。すごく冷静で、悲しそうで……でも、どこか懐かしい感じ」


 俺とほのかは顔を見合わせる。


 ――それは、間違いなく昨夜の『白瀬澪オリジナル』。


「それってさ」


 ほのかが慎重に言葉を選んだ。


「……たぶん、『もうひとりの澪』の記憶」


「もうひとりの、わたし?」


 澪の瞳がわずかに揺れる。


 でも、すぐに笑顔を作った。


「ふふ。なんか、面白いね」


「え?」


「私が私を夢に見る。――どっちが本物か、わかんなくなりそう」


「おい、それホラーだぞ」


「違うよ。……少し、嬉しかったの」


「嬉しかった?」


「だって、『私が消えたあと』にも、誰かが『私を覚えてくれてる』って思えたから」


 その言葉に、胸が少し痛んだ。


 澪はあくまで『精神体』。


 彼女自身が『消える』可能性をいつも冷静に把握している。


「バカ言うなよ、お前。消えねぇよ」


「科学的根拠は?」


「俺の根性」


「観測者理論、非論理的。壊滅的」


「うるせぇ! でも、説得力あるだろ?」


「……あるかも」


 澪がふっと笑う。


 同時に、ARIEL端末が小さく反応した。


《emotional sync: resonance +5%》(感情同期:共鳴度+5%)


 光がやさしく部屋を包む。


 その光景を見て、ほのかが小声で言った。


「ねえ、悠真くん。その『もうひとりの澪』が、もし完全に覚醒したら……」


「……入れ替わるのか?」


「かもね。でも、あんたの『観測』次第で結果は変わる」


「俺の?」


「『誰を見続けるか』。それが選択になる」


 その会話を聞いていた澪が少しだけ首をかしげた。


「なに話してるの?」


「いや、なんでも」


「隠しごと、観測妨害」


「違う違う!」


「じゃあ、罰として――」


「罰!?」


「今日の夜ごはん、あなたが作る」


「うわ、リアルな罰だ!」


「カーボン栄養素禁止ね」


「誰のせいで炭ができたと思ってんだ!」


 ほのかが吹き出す。


 いつものリズムが戻る。


 でも、その笑い声の裏でARIELの光がわずかに揺れた。


《core merge: 27%》(コア統合: 27%)


《emotion sync: progressing》(感情同期:進行中)


 澪の中で、『何か』が静かに進行している。


 それでも、今の彼女はただ笑っていた。


「ねえ悠真」


「ん?」


「『お前』とか『おい』じゃなくて、もっと名前で呼んで」


「え?」


「……夢の中の『もう一人』が、そう言ってた気がするの」


 その言葉に、俺は一瞬息を呑んで――笑った。


「……わかったよ、澪」


「うん」


 彼女はほんの少し照れくさそうに微笑んだ。


《core merge: 30%》

《system note: emotional stability – optimal》(システムノート: 感情の安定性 - 最適)


 ARIELの光が、まるで朝日のように温かかった。


   *


 昼下がり、白鳩荘のリビング。


 ちゃぶ台の上には、澪のノートパソコン――いや、正確にはARIEL端末が広がっていた。


 画面いっぱいに数式と英語が並んでいる。


 そして、その前に立つ澪。


 ……エプロン姿。


「なあ澪」


「なに、観測者」


「お前……料理してるよな?」


「うん」


「でも、その手元、明らかにコーディングしてるよな?」


「並列処理」


「そういう問題じゃねぇ!」


 包丁を持ちながらタイピングする姿は、まるで新たなホラー映画。


 しかもコードのコメント欄に「味覚補正アルゴリズム」とか書いてある。


 おい、なんだそれ。


「澪、料理って普通レシピ見るもんだろ」


「見てるよ。GitH○bで」


「料理中に見るとこじゃないから!!」


 ほのかが笑いを堪えながら、ARIEL端末を覗き込んでいた。


「澪、ちょっと見せて? あー、これ……『神経模倣味覚フィードバック』?」


「うん。昨日のトースト失敗の原因をデータ化した」


「なるほどね。『焦げの学習』」


「変な方向で成長してるな……!」


 俺のツッコミがむなしく響く。


 けれど、その時ふと気づいた。


 澪の髪が光に反射して淡く揺らめいている。


 まるでデータの波紋が彼女の中を流れているようだった。


「なあ、澪」


「ん?」


「……お前、最近少し変じゃないか?」


「変とは?」


「言葉の端々が『理論口調』になってきてる」


「学習効率の問題」


「そういうの!」


「……そう?」


 首をかしげる仕草はいつも通り。


 でも、言葉の重みが『別の澪』を感じさせる。


 ほのかが画面のデータを確認しながら、小声で言った。


統合値(マージ)、上がってる」


「どれくらい?」


「……45%。人格層が半分近く重なり始めてる」


「そんなに!?」


 俺が思わず声を上げると、澪が不思議そうにこちらを見た。


「何の話?」


「え、いや……その……料理番組のこと!」


「観測者、それ絶対嘘」


「お前のAI補正の方がよっぽど嘘だわ!!」


 ツッコミを入れながらも、心の奥にざわつきが残った。


 ――澪の中で、『オリジナル』が確実に動いている。


 そんな緊張感を、当の澪がいきなり吹き飛ばす。


「ねえ悠真」


「なに」


「味覚センサー、貸して」


「は? なんで俺が!?」


「観測者の舌を基準に最適化したい」


「やめろ、俺を人体実験扱いするな!」


「でも、観測者の味覚は安定してる。昨日も『うまい』と『微妙』の差を0.3秒で返した」


「それ精度の問題じゃなくて俺の感想だよ!?」


 ほのかが吹き出した。


「もう完全にラボだね、ここ」


「白鳩研究所って名前にするか?」


「いいね。『幽霊系新興企業(スタートアップ)』」


「いや幽霊とか言ってる時点で潰れてるだろそれ!」


 そんな馬鹿話の中でもARIELの光は確実に強まっていた。


《core merge: 48%》

《subpersonality sync: ongoing》(サブパーソナリティ同期: 進行中)


 そして、澪がふと手を止めた。


「……変だな」


「どうした?」


「さっきから、知らない数式が頭の中に浮かぶの」


「え」


「私の『手』じゃない誰かの記述……でも、懐かしい」


 室内の照明が一瞬チカッと点滅した。


 電子音のような風の音が窓の外で鳴る。


「今の……」


「外部干渉波。――NEMESISの残滓」


「またか!」


「でも反応は微弱。観測続行可能」


 ほのかがARIELの端末を見つめながらつぶやく。


「もしかして、オリジナル澪の記憶が――外から呼ばれてる?」


「呼ばれてる?」


「NEMESISは『感情』をたどる。つまり、『澪の想い』を使って再構成してるのかも」


 澪が静かに立ち上がる。


 光の粒が彼女の肩を包む。


「だったら、迎えに行く」


「え?」


「――私の『もう一人』を」


 その目は、幽霊でも研究者でもない。


 ひとりの『白瀬澪』だった。


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