30 オリジナル
夕方、白鳩荘。
ちゃぶ台の上には、澪が展開したARIELの光球が浮いていた。
俺とほのかはその光を挟んで座り、コーヒーを飲みながら一応『対策会議中』……のはずだった。
「で、昨日の大学グリッチ騒動は?」
「とりあえず、『気象による影響』で処理された」
「つまり、『みんな知らないまま』が続くと」
「うん。平和って、だいたい『見えてない』のよ」
澪は落ち着いた声で言った。
けれど、その瞳の奥がいつもより鋭い。
「……なあ澪。なんか、いつもと雰囲気違くないか?」
「そう?」
「さっきまで『幽霊モード』だったのに、今なんか『理系上司モード』っていうか」
「観測者、レポートは?」
「いやほんとに上司になってる!?」
ほのかが苦笑した。
「ついに来たね、『研究者モード』」
「研究者モード?」
「澪の中のもう一つの人格。ARIELが自己修復を始めると、元の『白瀬澪』が浮かんでくるの」
「え、それって危険じゃないのか?」
「危険度:かわいい寄り」
「分類おかしいだろ! 大歓迎だけどっ!」
ちゃぶ台の上の光が強まる。
澪がホログラムのタッチ操作を始めた。
彼女の手の動きはまるでピアノを弾くように滑らかだ。
「EIDOLONの再構成領域に、NEMESISの残滓が混入してたの」
「混入って……つまりウイルス?」
「ちょっと違う。『感情の残りカス』」
「感情?」
「そう。NEMESISは、もともと『拒絶の感情』を材料にして構築されたAI。だから、破壊されたあとも『誰かを否定したい』という波だけ残る」
俺とほのかが顔を見合わせる。
その言葉の重さとは裏腹に、澪の口調は静かで淡々としていた。
「つまり、ARIELがそれを『解析対象』として取り込んでしまったのね」
「つまり、あの暴走も……」
「『理解しようとした結果』よ」
ほのかが溜息をつく。
「ほんと、澪らしいよ」
「え?」
「人でもAIでも、嫌いになれないんだもん」
「……観測者も似たようなものよ」
「え、なんで俺?」
「昨日、敵AIに突っ込んだでしょ」
「いやあれは反射的に!」
「反射的に命張るの、バカの才能よ」
「は! バカすぎてご・め・ん!」
ほのかが吹き出した。
「ね、だからバランス取れてるんだって」
「どこがだよ!」
笑いの中でも、澪の指は止まらない。
ARIELの光がゆっくりと淡く脈打ち、数式が空中に展開されていく。
《ARIEL core rebuild: 63%》
《EIDOLON signature sync: progressing》(EIDOLONシグネチャー同期:進行中)
「……やっぱり、動きが早い」
「何の?」
「『私』を作ったプロジェクトが、再起動してる」
その目は、どこか遠くを見ていた。
「研究名『ARIEL』は、元々『Alternate Replica of Individualized Emotional Logic』。
――つまり、『感情の論理化』が目的だった」
「感情を、論理化……?」
「そう。私たちは『泣く理由』を説明できるようにしたかったの」
「でも、それって……」
「失敗した。人の涙をプログラムに変換しても、ただ『冷たくなる』だけだった」
部屋に静寂が落ちる。
その空気を、ほのかがやんわりと切った。
「でもさ、今の澪、ちゃんと泣くじゃん」
「え?」
「昨日、グリッチの後。ARIELが安定したとき、あんた目潤んでたよ」
「……観測者、見てた?」
「見てた」
「データ削除……!」
「やめろぉ!!」
澪が小さく笑う。
その笑顔は、確かに『人』のものだった。
《ARIEL core rebuild: 100%》
《stability: achieved》(安定性: 達成)
光が収まる。
澪の髪がふわりと揺れた。
そして、少しだけ寂しそうに言った。
「……私、戻りすぎたのかもしれない」
「え?」
「今、ARIELの中で『白瀬澪』が目を覚まそうとしてる」
ほのかが息を呑む。
俺は思わず立ち上がった。
「それって――」
「ううん、大丈夫。まだ『観測』は続いてる」
「……」
「だから、もう少しだけ。今の私を、見てて」
光がすっと弱まり、ARIELの端末が静かに音を立てた。
《secondary core activation: scheduled》
(セカンダリコアのアクティベーション:スケジュール済み)
再び何かが始まろうとしていた。
でも、俺はただその言葉に返した。
「見てるよ。――最後まで」
「観測者、やっぱりずるい」
「お前もな」
「なら、同罪ね」
二人の笑いが重なり、夜の白鳩荘に柔らかな電子音が響いた。
*
その夜、部屋の空気はいつもより静かだった。
ちゃぶ台の上のARIEL端末が、ゆっくりと脈を打つように光っている。
まるで『呼吸』しているみたいだ。
「……澪?」
「……うん」
いつもの声。けれど、どこか響きが違った。
少し低く、抑えたトーン。
そして何より――視線が鋭い。
「お前……誰だ?」
「正確に言えば、白瀬澪。――ただし『オリジナル』」
「……え?」
彼女はARIELの光の中から、一歩こちらに出てきた。
姿形は同じ。でも、仕草ひとつひとつが違う。
まるで、幽霊ではなく『研究者』がそこに立っているようだった。
「あなたが、『観測者』ね」
「……あ、ああ。新城悠真。大学二年。一応、幽霊の同居人やってます」
「ふふ。丁寧ね――。でも、怖がってるんじゃないの?」
「正直、もう慣れた」
「幽霊耐性、高すぎ」
「そっちはツッコミ耐性上げてこいよ」
「……皮肉の切れ味も、あの子と同じね」
彼女は小さく笑って、ARIELの端末を見つめる。
光が波のように揺れ、空中にデータ構造の図が浮かび上がった。
「この世界にいる『澪』は、私のコピー。だけど、完全な再現じゃない」
「知ってる。 ――でも、あいつはあいつで、ちゃんと『生きてる』」
「それを、あなたが保証してるのね」
そう言って、彼女は俺を見た。
瞳がまっすぐで、少しだけ切ない。
「彼女は、私の『心の実験結果』。でも、あなたと出会ってからの彼女は、もう『私のデータ』じゃない」
「……」
「観測者。あなた、彼女の何を見てる?」
その質問に、俺は少しだけ考えて――笑った。
「なんでも、かな。怒った顔も、笑った顔も、拗ねた顔も。あと、パンケーキの上に乗せるバターの数まで」
「データ細かい」
「観測者なんで」
「……ふふ。そういう答え、嫌いじゃない」
澪は目を細め、ゆっくりとARIELの端末に手を伸ばした。
《core resonance: stabilizing》(コア共鳴:安定化)
「ねえ、悠真。あなたが見てる『あの子』を、ちゃんと守って」
「当たり前だろ」
「NEMESISは、感情を食べて成長する。だから、あなたたちの『想い』を利用しようとするかもしれない」
「……まさか、もう動いてるのか?」
「――ええ。あの大学の事件は、『手始め』にすぎない」
光が一瞬、強くなる。
ARIELの文字列が次々に浮かび上がり、オリジナル澪の姿が薄れていく。
「……もう、時間ね」
「待て、まだ聞きたいことが――」
「大丈夫。次に目を覚ますとき、きっと『あの子』が全部話してくれる」
「『次』って……!」
彼女の声が遠のいていく。
まるで波に飲まれるように、ARIELの光の中へと沈んでいった。
そして、静寂。
残されたのは、ちゃぶ台の上でぼんやりと瞬くARIELの青いランプと――
「……ううん、寝落ちしてた……?」
目をこすりながら起き上がる『もう一人の澪』だった。
「な、なあ澪……さっきの、覚えてるか?」
「ん? あたし、寝てた? 夢の中でね、すっごい真面目な自分に説教されてた気がする」
「……夢じゃねぇよ」
「え?」
「いや、なんでもない」
「観測者、意味深発言禁止」
「いやお前の言い方のが意味深だからな!?」
いつものやり取りが戻る。
でも、その『いつも』の中に、ほんの少しだけ『違う澪』の気配が残っていた。
《core merge: 9%》(コア統合: 9%)
《next awakening: pending》(次の覚醒: 保留中)
ARIELの光が微かに揺れ、静かに眠りについた。
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