第9話 初めてのわがまま
温泉騒ぎから数日後の夕方。
薬草畑の手入れを終えて居間に戻ると、ヴァルディオス様が暖炉の前で腕を組んで待っていた。
「アニエス。座れ」
「……はい?」
妙に改まった声に、私はおそるおそる向かいの椅子に腰かけた。
「聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「お前は、何が欲しい」
(またその質問……)
この屋敷に来てから、ヴァルディオス様は毎日のように同じことを聞く。そして私は、毎回同じように答えてきた。
「もう、十分すぎるほどいただいています」
「それだ」
ヴァルディオス様は、眉間に皺を寄せた。
「シャンデリアも、本も、ドレスも、湯も。全部、俺が勝手に用意したものだ。お前の口から、何かが欲しいと聞いたことは一度もない」
「それは……」
「十年前もそうだった。お前は俺に、肉もミルクも全部くれた。自分の朝食まで持ってきて、自分は腹を鳴らしていた」
(そんなことまで……)
「俺は、お前の望みが知りたい。俺が与えたいものではなく、お前が欲しいものが」
金色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
私は膝の上で両手を握りしめた。
(欲しいもの……)
考えたことがなかった。いいえ、考えないようにしてきたのだ。
王都の屋敷で、何かを欲しいと口にすれば、それはいつの間にかベアトリスのものになった。欲しいと言わなければ、奪われることもない。そうやって、望むことをやめてきた。
でも、この人は。
この人なら、奪わない。
そう信じてしまいたいと思っている自分に、私は気づいていた。
「……笑わないで、くださいますか」
「笑わない」
「本当に?」
「竜王の名にかけて」
大げさな言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
私は小さく息を吸った。
「空を……見てみたいんです」
「空?」
「十年前、あなたが飛んでいった空を。納屋の前で見送ったとき、あの子はどんな景色を見ているんだろうって、ずっと思っていて」
言ってしまってから、顔が熱くなった。
「子どもっぽいですよね。ごめんなさい、今のは忘れて――」
「乗れ」
「……え?」
ヴァルディオス様は、もう立ち上がっていた。
「今すぐだ。日が沈む前がいちばんきれいだ」
手を引かれるまま庭に出ると、彼は私から数歩離れた。
まばゆい光が弾け、次の瞬間、そこには銀の竜がいた。
あの夜、月の下で見たのと同じ、大きな竜。夕陽を受けた鱗が、薔薇色に染まっている。
竜は長い首を下げ、私の目の前に頭を差し出した。金色の瞳が、乗れ、と言っている。
(本当に、乗っていいの……?)
ゴットフリートさんがどこからか現れ、手早く私に毛皮の外套を着せてくれた。
「首の付け根の、少し窪んだところへ。しっかり掴まっていらっしゃれば、陛下は決して落としません」
言われたとおりに、首の付け根にまたがる。鱗は思ったよりも温かく、すべすべしていた。
竜が、ゆっくりと翼を広げた。
ふわり、と身体が浮く。
「きゃ……っ」
一度、二度。力強い羽ばたきとともに、地面がみるみる遠ざかっていく。
屋敷の青い屋根が、小さくなる。白い薔薇の庭が、点のようになる。
そして――風が止んだかと思うほど、高い場所に来ていた。
「……わあ」
声が、勝手にこぼれた。
見渡す限り、夕焼けだった。
橙と薔薇色に染まった雲が、足元に広がっている。その切れ間から、ヴィントベルクの森と村が見えた。トビの家の煙突から、細い煙が上がっている。村の家々に、ぽつぽつと灯りがともり始めていた。
北には、雪をかぶった山脈が、どこまでも連なっている。
竜が、その山脈のほうへ首を向けた。
(あの山の向こうが、あなたの国なのね)
十年前、傷の癒えた子竜は、あの山を越えて帰っていったのだ。兄に追われ、王位を争い、たったひとりで。
そして十年後、同じ山を越えて、私のところへ来てくれた。
手のひらで、温かい鱗をそっと撫でる。
「……ありがとう、ノエル」
(二人きりだから、いいわよね)
竜の身体が、びくりと震えた。ふわっと、周りの空気が暖かくなる。
(あ、照れてる)
くすくす笑うと、竜は抗議するように低く喉を鳴らした。
しばらく、私たちは黙って空を漂った。
夕陽が山の向こうに沈み、空が藍色に変わっていく。一番星が、ひとつ灯った。
「ねえ、ヴァルディオス様」
風の音に紛れるように、私は言った。
「私、ここが好きです。あの屋敷も、薬草畑も、村の人たちも」
それから、少しだけ迷って、付け足した。
「……あなたが、いてくださる毎日も」
竜が、ゆっくりと首をめぐらせた。金色の瞳が、すぐそばにある。
その瞳がやわらかく細められて――。
次の瞬間、鋭く見開かれた。
竜の身体が、ぴんと緊張する。
「ヴァルディオス様?」
竜の視線の先を追う。
北の山脈の方角。藍色の空に、赤い光点がひとつ。
それは、みるみる大きくなった。
赤い翼。赤い鱗。――竜だ。
赤い竜はまっすぐこちらへ飛んできて、私たちの目の前で羽ばたきを止めた。ヴァルディオス様より、ひと回り小さい。けれど、その金色の目は、明らかに私を睨んでいた。
赤い竜の身体が光に包まれ、宙に浮いたまま、燃えるような赤い髪の少女の姿になる。背には、竜の翼が残っていた。
「見つけましたわよ、従兄様!」
高く澄んだ声が、夜空に響いた。
「国を空けたきり、ちっとも戻っていらっしゃらないと思えば……こんな辺境で、何をなさっているの!」
少女の視線が、私に突き刺さる。
「そして、その人間は何ですの。まさか――」
少女は、私の左手首の印に目を留めた。
端整な顔が、怒りに歪む。
「人間の番など、竜族は決して認めませんわ!」




