↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呪いの印と追放された令嬢ですが、十年前に助けた子竜が竜王になって迎えに来ました  作者: フトダマノミコト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/18

第8話 温泉が湧いた

 村から戻って十日ほどの間に、屋敷は毎朝、少しずつ――いいえ、かなり変わっていった。


 ある朝は、玄関広間の天井に、硝子の雫が連なるシャンデリアが下がっていた。


 ある朝は、かびだらけだった書斎の本がすべて修繕され、壁一面の書棚に、竜の国から運ばれてきたという薬草学の本がずらりと並んでいた。


 ある朝は、衣装部屋の扉を開けると、見たこともない量のドレスが吊るされていた。



「……ゴットフリートさん」



「はい、アニエス様」



「このドレス、いったい何着あるのでしょう」



「本日の分は、四十着でございます」



「本日の、分……」



「陛下が、季節ごとに揃えたいと」



 私は額を押さえた。



(毎朝、何かが増えている……)



 嬉しくないわけではない。シャンデリアの光はきれいだし、薬草学の本は夢中で読んでしまったし、ドレスは……一着だけ、薄い若草色のものに袖を通してみたら、ヴァルディオス様がしばらく口をきかなくなった。後でゴットフリートさんが「見惚れておいでだったのです」と教えてくれた。


 でも、さすがに多すぎる。


 そして、その朝。


 窓の外に、白い湯気が立ちのぼっているのを見つけた。


 屋敷の裏手、森との境目のあたり。もうもうと上がる湯気が、朝の冷たい空気に溶けていく。



(……火事? いいえ、煙じゃない)



 急いで裏へ回った私は、その光景に立ち尽くした。


 岩で囲まれた、大きな池があった。いいえ、池ではない。湯だ。透き通った湯がこんこんと湧き出し、あたりに不思議な匂いを漂わせている。湯船のまわりには平らな石が敷かれ、脇には木造りの小さな脱衣小屋まで建っていた。



「温泉……」



「起きたか、アニエス」



 湯気の向こうから、ヴァルディオス様が現れた。袖も裾も泥だらけだ。



「北の冬は冷える。薬草仕事で手も荒れるだろう。この湯は肌にいいと、ゴットフリートが――」



「ヴァルディオス様」



 私は、精いっぱい真面目な顔を作った。



「やりすぎです」



「……やりすぎか?」



「やりすぎです! シャンデリアも、本も、ドレス四十着も、温泉も!」



 ヴァルディオス様は、心底不思議そうに首を傾げた。



「まだ、最初に考えていたものの半分も揃えていないが」



「半分……!?」



 頭がくらくらする。


 ちょうどそのとき、表の門のほうから賑やかな声が聞こえてきた。トビと、村の子どもたちだ。最近はすっかり、薬草畑の様子を見に通ってくるようになっていた。



「アニエス様ー! お屋敷の裏から湯気が出てるって、母ちゃんたちが――うわあ、すげえ!」



「お湯だ! お湯が湧いてる!」



「お城みたい! お屋敷がお城になってる!」



 子どもたちが目を輝かせて駆け回る。



(……噂が、また広まるわね)



 私はため息をついて、湯気の立つ湯面を見つめた。


 本当は、やりすぎだと思っているだけではなかった。胸の奥に、小さなとげのようなものが刺さっていた。


 王都の屋敷で、私のものは何でもベアトリスに奪われた。お母様の首飾りも、手巾も、婚約者も。大切なものができるたびに、失う日がくるのだと覚えた。


 だから、怖いのだ。


 こんなにたくさん与えられたら、いつか全部なくなったとき、私はきっと立っていられない。


 ちり、と手首の印が疼く。



「アニエス」



 気づけば、ヴァルディオス様がすぐ目の前にいた。泥だらけの手を一度ためらって引っ込め、外套の内側で拭いてから、そっと私の頬に触れる。



「怖いのか」



「……伝わって、しまいましたか」



「ああ」



 彼は少しだけ、悲しそうな顔をした。



「俺が与えたものは、誰にも奪わせない。シャンデリアも、本も、ドレスも、この湯も。……お前自身も」



「……」



「だが、怖いなら、減らす。お前が安心できるまで、一日にひとつにする」



(一日にひとつ、でも多いのでは……)



 思わず、ふっと笑みがこぼれた。


 とげが、少しだけ小さくなった気がした。



「……減らさなくても、いいです。ただ、もう少しゆっくりにしてください。私が、慣れるまで」



「分かった」



 ヴァルディオス様は真剣に頷き、それから温泉の奥を振り返った。



「なら、薬草畑への湯の引き込みは来週にしよう。今から掘るつもりだったが」



「え」



 見ると、彼はもう袖をまくり、岩場のほうへ歩き出している。その手の先が、うっすらと赤く光った。地面ごと掘り抜くつもりだ。



「来週と言いながら、今掘ろうとしていませんか!?」



「下見だ」



「下見で地面は光りません! ノエル、待って!」



 ――しん、と。


 あたりが、静まり返った。


 口から飛び出した名前に、私自身がいちばん驚いていた。十年前、納屋で藁を蹴散らしていた子竜を叱ったときと、まったく同じ調子で。


 ヴァルディオス様が、ぴたりと動きを止めた。


 ゆっくりと振り返ったその顔は――耳の先から首まで、真っ赤だった。


 同時に、ぶわっと熱風が吹いた。足元の霜が一瞬で溶け、温泉の湯気が倍に膨れ上がる。



「わっ……!?」



「すげえ! お湯が噴いた!」



 子どもたちの歓声が上がる。



「陛下は、お心が乱れると周りの気温が上がるのでございます」



 いつの間にか隣に来ていたゴットフリートさんが、のんびりと教えてくれた。



「お、乱れて……?」



「ええ。たいへんに」



 ヴァルディオス様は片手で顔を覆い、湯気の中に立ち尽くしている。



「……アニエス」



「は、はい」



「その名は……二人きりのときだけにしてくれ」



 消え入りそうな声だった。



「人前で呼ばれたら、たぶん、屋敷が燃える」



 私は真っ赤になって、こくこくと頷いた。


 その日の午後、村の人たちの間では「丘の上の屋敷の裏で、湯が空まで噴き上がった」という噂が広まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。