第8話 温泉が湧いた
村から戻って十日ほどの間に、屋敷は毎朝、少しずつ――いいえ、かなり変わっていった。
ある朝は、玄関広間の天井に、硝子の雫が連なるシャンデリアが下がっていた。
ある朝は、かびだらけだった書斎の本がすべて修繕され、壁一面の書棚に、竜の国から運ばれてきたという薬草学の本がずらりと並んでいた。
ある朝は、衣装部屋の扉を開けると、見たこともない量のドレスが吊るされていた。
「……ゴットフリートさん」
「はい、アニエス様」
「このドレス、いったい何着あるのでしょう」
「本日の分は、四十着でございます」
「本日の、分……」
「陛下が、季節ごとに揃えたいと」
私は額を押さえた。
(毎朝、何かが増えている……)
嬉しくないわけではない。シャンデリアの光はきれいだし、薬草学の本は夢中で読んでしまったし、ドレスは……一着だけ、薄い若草色のものに袖を通してみたら、ヴァルディオス様がしばらく口をきかなくなった。後でゴットフリートさんが「見惚れておいでだったのです」と教えてくれた。
でも、さすがに多すぎる。
そして、その朝。
窓の外に、白い湯気が立ちのぼっているのを見つけた。
屋敷の裏手、森との境目のあたり。もうもうと上がる湯気が、朝の冷たい空気に溶けていく。
(……火事? いいえ、煙じゃない)
急いで裏へ回った私は、その光景に立ち尽くした。
岩で囲まれた、大きな池があった。いいえ、池ではない。湯だ。透き通った湯がこんこんと湧き出し、あたりに不思議な匂いを漂わせている。湯船のまわりには平らな石が敷かれ、脇には木造りの小さな脱衣小屋まで建っていた。
「温泉……」
「起きたか、アニエス」
湯気の向こうから、ヴァルディオス様が現れた。袖も裾も泥だらけだ。
「北の冬は冷える。薬草仕事で手も荒れるだろう。この湯は肌にいいと、ゴットフリートが――」
「ヴァルディオス様」
私は、精いっぱい真面目な顔を作った。
「やりすぎです」
「……やりすぎか?」
「やりすぎです! シャンデリアも、本も、ドレス四十着も、温泉も!」
ヴァルディオス様は、心底不思議そうに首を傾げた。
「まだ、最初に考えていたものの半分も揃えていないが」
「半分……!?」
頭がくらくらする。
ちょうどそのとき、表の門のほうから賑やかな声が聞こえてきた。トビと、村の子どもたちだ。最近はすっかり、薬草畑の様子を見に通ってくるようになっていた。
「アニエス様ー! お屋敷の裏から湯気が出てるって、母ちゃんたちが――うわあ、すげえ!」
「お湯だ! お湯が湧いてる!」
「お城みたい! お屋敷がお城になってる!」
子どもたちが目を輝かせて駆け回る。
(……噂が、また広まるわね)
私はため息をついて、湯気の立つ湯面を見つめた。
本当は、やりすぎだと思っているだけではなかった。胸の奥に、小さなとげのようなものが刺さっていた。
王都の屋敷で、私のものは何でもベアトリスに奪われた。お母様の首飾りも、手巾も、婚約者も。大切なものができるたびに、失う日がくるのだと覚えた。
だから、怖いのだ。
こんなにたくさん与えられたら、いつか全部なくなったとき、私はきっと立っていられない。
ちり、と手首の印が疼く。
「アニエス」
気づけば、ヴァルディオス様がすぐ目の前にいた。泥だらけの手を一度ためらって引っ込め、外套の内側で拭いてから、そっと私の頬に触れる。
「怖いのか」
「……伝わって、しまいましたか」
「ああ」
彼は少しだけ、悲しそうな顔をした。
「俺が与えたものは、誰にも奪わせない。シャンデリアも、本も、ドレスも、この湯も。……お前自身も」
「……」
「だが、怖いなら、減らす。お前が安心できるまで、一日にひとつにする」
(一日にひとつ、でも多いのでは……)
思わず、ふっと笑みがこぼれた。
とげが、少しだけ小さくなった気がした。
「……減らさなくても、いいです。ただ、もう少しゆっくりにしてください。私が、慣れるまで」
「分かった」
ヴァルディオス様は真剣に頷き、それから温泉の奥を振り返った。
「なら、薬草畑への湯の引き込みは来週にしよう。今から掘るつもりだったが」
「え」
見ると、彼はもう袖をまくり、岩場のほうへ歩き出している。その手の先が、うっすらと赤く光った。地面ごと掘り抜くつもりだ。
「来週と言いながら、今掘ろうとしていませんか!?」
「下見だ」
「下見で地面は光りません! ノエル、待って!」
――しん、と。
あたりが、静まり返った。
口から飛び出した名前に、私自身がいちばん驚いていた。十年前、納屋で藁を蹴散らしていた子竜を叱ったときと、まったく同じ調子で。
ヴァルディオス様が、ぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと振り返ったその顔は――耳の先から首まで、真っ赤だった。
同時に、ぶわっと熱風が吹いた。足元の霜が一瞬で溶け、温泉の湯気が倍に膨れ上がる。
「わっ……!?」
「すげえ! お湯が噴いた!」
子どもたちの歓声が上がる。
「陛下は、お心が乱れると周りの気温が上がるのでございます」
いつの間にか隣に来ていたゴットフリートさんが、のんびりと教えてくれた。
「お、乱れて……?」
「ええ。たいへんに」
ヴァルディオス様は片手で顔を覆い、湯気の中に立ち尽くしている。
「……アニエス」
「は、はい」
「その名は……二人きりのときだけにしてくれ」
消え入りそうな声だった。
「人前で呼ばれたら、たぶん、屋敷が燃える」
私は真っ赤になって、こくこくと頷いた。
その日の午後、村の人たちの間では「丘の上の屋敷の裏で、湯が空まで噴き上がった」という噂が広まった。




