第7話 辺境の村
芽が出た日の昼過ぎ、私は村へ出かけることにした。
ゴットフリートさんの料理のおかげで食べるものには困っていないけれど、いつまでも甘えているわけにはいかない。それに、薬草が育ったら売りに行くのだ。村の様子を知っておきたかった。
「俺も行く」
玄関で外套を羽織っていると、当然のようにヴァルディオス様が隣に立った。
「あの、村の人たちが驚きませんか……?」
「なら、こうする」
彼は黒い外套のフードを深くかぶった。銀の髪が隠れ、金色の瞳だけが陰からのぞく。
(……かえって怪しいような)
言っても聞かない気がしたので、私は黙って頷いた。
屋敷から村までは、森沿いの道を歩いて半刻ほどだった。
ヴィントベルクの村は、思っていたよりもずっと小さかった。石と木で建てた家が二十軒ほど。畑は痩せていて、刈り入れの終わった麦の切り株がまばらに残っている。広場の井戸のまわりで洗濯をしていた女の人たちが、私たちに気づいて手を止めた。
「……あれ、丘の上のお屋敷の」
「幽霊屋敷に、人が住みついたって」
「王都から、呪われたお嬢様が追い出されてきたんだってさ」
ひそひそ声が、風に乗って聞こえてくる。
(……ここまで、噂が届いているのね)
胸の奥が、ひやりと冷えた。
隣で、ヴァルディオス様の気配がぴりっと尖る。フードの下の金色の瞳が、すうっと細くなった。
「ヴァルディオス様、だめです」
私は慌てて彼の袖を引いた。
「何もしていない」
「今、何かしようとなさいましたよね」
「……睨もうとしただけだ」
「それも、だめです」
私は深呼吸をして、女の人たちに近づいた。
「こんにちは。丘の上の屋敷に越してきました、アニエス・リーヴェルと申します。小麦粉と卵を分けていただきたいのですが、どちらで……」
女の人たちは顔を見合わせた。誰も答えない。
気まずい沈黙が流れた、そのときだった。
「だれか! だれか、助けて!」
広場の向こうから、小さな男の子が駆けてきた。十歳くらいだろうか。顔を真っ赤にして、泣きじゃくっている。
「トビ、どうしたの!」
「姉ちゃんが、姉ちゃんが、すごく熱くて、起きないんだ……!」
女の人たちが、さっと青ざめた。
「冬熱だわ……」
「お医者様は、春まで来ないのに」
冬熱。北の土地で冬の初めに流行る熱病だ。お母様の手帳にも書いてあった。熱が高くなりすぎると、命に関わることもある。
考えるより先に、身体が動いていた。
「私に、診せていただけませんか」
男の子――トビが、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「お姉ちゃんのところへ、案内してくれる?」
トビの家は、村のいちばん端にあった。
狭い寝台の上で、十四、五歳くらいの女の子が荒い息をついていた。額に触れると、驚くほど熱い。
「お父さんとお母さんは?」
「父ちゃんは、山に出稼ぎ。母ちゃんは、去年……」
トビが唇を噛む。それ以上は聞かなかった。
私は持ってきていた布袋を開けた。王都を出るとき、お母様の手帳と一緒に詰めてきた、乾燥させた薬草の束。白花草と、柳の皮と、少しのカモミール。
(足りる……? いいえ、足りさせるのよ)
「トビ、お鍋にお湯を沸かして。それから、きれいな布をたくさん」
「う、うん!」
「ヴァルディオス様は、井戸から冷たい水を」
「分かった」
竜王様に水汲みを頼むなんて、と思う余裕もなかった。
薬草を煎じ、少しずつ女の子の口に含ませる。冷たい水で絞った布で、額と首筋を冷やす。熱で布はすぐにぬるくなるので、何度も何度も取り替えた。
気づけば、窓の外は暗くなっていた。
「アニエス、少し休め」
「大丈夫です。ここからが大事なところなので」
夜半、女の子の熱がいちばん高くなった。うわ言のように母親を呼ぶ声に、トビが泣き出しそうになる。
「大丈夫よ、トビ。お姉ちゃんは頑張ってる」
私はトビの頭を撫で、また布を絞った。
ヴァルディオス様は、部屋の隅に黙って立っていた。ときどき、空になった水桶を満たしてくれる。それ以外は、何も言わなかった。
夜明け前。
女の子の額に触れた私の手が、止まった。
汗が、じっとりと滲んでいる。荒かった呼吸が、静かな寝息に変わっていた。
「……熱が、下がった」
その言葉を口にした途端、全身から力が抜けた。
「姉ちゃん……!」
トビが寝台にすがりつく。女の子がうっすらと目を開け、弟の名前を呼んだ。
私はその場にへたり込みそうになり――大きな手に、肩を支えられた。
「よくやった」
ヴァルディオス様の声は、ひどく優しかった。
「……私、何もできない娘だと思っていたんです」
「知っている。印から、ずっとそう聞こえていた」
「でも、今……」
「お前は昔から、何かを救える娘だった。俺が、その証拠だ」
竜の力では、土地を育てることはできても、人の病は治せないのだと、彼は言った。
「だからこれは、お前にしかできないことだ」
涙がにじみそうになって、私は慌てて瞬きをした。
翌朝、トビの家の前には、村の人たちが集まっていた。
昨日、ひそひそと噂をしていた女の人たちもいた。皆、手に何かを抱えている。卵。小麦粉の袋。干した茸。
「……お嬢様。昨日は、すまなかったね」
いちばん年かさの女の人が、気まずそうに頭を下げた。
「噂なんかで、あんたを悪く言って。トビんとこの娘を助けてくれて、ありがとう」
「い、いえ、そんな……」
「うちの爺さんも、膝が痛くてさ。今度、診てもらえないかい」
「うちの子も、咳が止まらなくて」
次々にかけられる声に、私は目を丸くした。
それから、ゆっくりと頷いた。
「はい。私にできることなら」
(……ここにいて、いいんだ)
生まれて初めて、そう思えた気がした。
帰り道、たくさんの贈り物を抱えたヴァルディオス様が、ぽつりと言った。
「あの小僧、お前に抱きつきすぎではないか」
「トビは十歳ですよ……?」
「十歳でも、男だ」
ふん、と鼻が鳴る。
私は笑いながら、小さな双葉の待つ屋敷への道を歩いた。




