第6話 枯れ庭に花が咲く
翌朝。
カーテンを開けた私は、窓枠をつかんだまま、しばらく動けなかった。
庭が、花で埋まっていた。
昨日まで枯れ草しかなかった場所に、白い薔薇が咲き乱れている。泥水の溜まっていた噴水からは、澄んだ水が噴き上がっている。小道の両脇には紫の花が列をなし、門へと続く並木には、季節外れの淡い花が満開だった。
「…………」
私は無言で着替え、無言で階段を下り、無言で庭へ出た。
薔薇の香りが、むせ返るほど濃い。
「アニエス」
噴水の前に、ヴァルディオス様が立っていた。朝日を受けて、銀髪がきらきらと光っている。花の中に立つ姿は、まるで絵画のようだった。
「気に入ったか」
期待に満ちた金色の瞳。
「ヴァルディオス様……これは」
「竜王の気は、土地を育てる。昨夜、少し庭を歩いた」
「少し、歩いただけで……?」
「少し、念入りに歩いた」
(念入りに……)
ゴットフリートさんが、薔薇の茂みの向こうから顔を出した。
「陛下は夜通し、庭を三十往復ほどなさいまして」
「ゴットフリート」
「失礼いたしました」
私はあらためて、庭を見回した。
美しい。本当に、夢みたいに美しい庭だ。王都の屋敷の庭よりも、ずっと。
でも。
私が枯れ草を抜いて見つけた、石で区切られた花壇の跡。あそこも今は、白い薔薇に埋め尽くされていた。
(……あそこに、薬草を植えるつもりだったのに)
お母様の手帳を開いて、どの薬草をどこに植えようか、遅くまで考えていたのだ。ここで、自分の手で、ひとりで生きていくために。
そう思った瞬間、左手首の印がちりっと疼いた。
はっとして顔を上げると、ヴァルディオス様の表情が強張っていた。
「……嫌、だったのか」
「え……」
「今、お前の心が沈んだ。印から伝わった」
(そうだった。この方には、伝わってしまうんだわ)
「ち、違います。嫌なわけではなくて、とても綺麗で……」
「アニエス」
静かな声だった。責めるのではなく、ただ知りたいという声。
「正直に言ってくれ。俺は、お前の喜ぶことがしたい。お前を悲しませることは、したくない」
私はしばらく迷ってから、花壇の跡を指さした。
「……あそこに、薬草を植えようと思っていたんです。母が遺してくれた手帳があって。自分の手で育てて、村で売って、暮らしていけたらって」
ヴァルディオス様は、白い薔薇の花壇を見つめた。
そして、ひどく申し訳なさそうに眉を下げた。
「……すまない」
「いえ、そんな」
「お前が、自分で何かを育てたいと思っていたことに、気づかなかった。俺は与えることばかり考えていた」
竜王様が、私に頭を下げている。
慌てて首を振ろうとしたとき、彼はもう花壇の前にしゃがみ込んでいた。
「ゴットフリート。この薔薇を、玄関脇へ移せ。根を傷つけるなよ」
「かしこまりました」
ゴットフリートさんが指を鳴らすと、どこからか若い男の人たちが現れた。皆、銀や赤や緑の髪をしている。竜、なのだろう。彼らは手際よく薔薇を掘り起こし、玄関のほうへ運んでいく。
あっという間に、花壇はふかふかの黒い土だけになった。
「これでいいか」
「は、はい。ありがとうございます……」
「種はあるのか」
「あります。部屋に」
急いで取ってくると、ヴァルディオス様は袖をまくって待っていた。
「……手伝ってくださるんですか?」
「お前の手で育てるのだろう。だから、手伝うだけだ」
そう言って、彼は私の隣に膝をついた。
(竜王様が、土いじり……)
お母様の手帳を開き、ここはカモミール、ここはセージ、ここは熱冷ましになる白花草、と区画を決めていく。指で土に浅い溝を作り、種をひと粒ずつ落とす。
ヴァルディオス様は、驚くほど不器用だった。
「ああっ、そんなに深く掘ったら芽が出ません」
「……む」
「種は三粒ずつです。ひと掴みは多すぎます!」
「多いほうが、たくさん生えるだろう」
「生えすぎて、全部弱ってしまうんです」
真剣な顔で種をつまみ直す姿に、私は堪えきれずに笑ってしまった。
「何がおかしい」
「だって、ひと晩で庭じゅうに薔薇を咲かせた方が、種三粒で苦戦なさっているから」
ヴァルディオス様は、むっとした顔をした。それから、つられたように口元をゆるめた。
「……お前が笑うなら、いくらでも苦戦してやる」
(また、そういうことを)
頬が熱くなって、私は慌てて土に目を落とした。
種をすべて蒔き終え、じょうろで水をやる。ヴァルディオス様は、黒い土をじっと見つめていた。
「俺が少し気を流せば、明日には芽が出るが」
「だめです」
「なぜだ」
「待つのも、楽しいんです。毎朝、今日は芽が出ているかしらって、のぞきに来るのが」
ヴァルディオス様は、少し考え込むような顔をした。
「待つのが、楽しい……か」
「おかしいですか?」
「いや」
彼は立ち上がり、膝の土を払った。そして、私を見下ろして、ふっと笑った。
「待つのは、得意だ。十年待った」
言葉の意味が胸に届くまで、少し時間がかかった。
届いたときには、もう顔が真っ赤になっていた。
(……この方は、本当に)
五日後の朝。
黒い土の上に、小さな緑の芽がいくつも顔を出した。
「ヴァルディオス様、出ました! 芽が出ています!」
思わず大きな声を上げると、彼は居間の窓から飛び出してきた。文字通り、窓から。
「どこだ」
「ここです、ほら」
二人で花壇の前にしゃがみ込み、小さな双葉を見つめる。
「……小さいな」
「これから大きくなるんです」
「そうか」
その横顔が、なんだか私よりも嬉しそうで。
私はまた、くすりと笑った。




