第5話 一夜で屋根が直った
真っ白な天井。染みひとつない。
(……夢?)
目をこすっても、天井は白いままだった。部屋を見回すと、雨漏り用に並べていた鍋と桶が、きれいに洗われて扉の脇に重ねてある。割れていた窓硝子は新しくなり、朝の光がまっすぐ差し込んでいた。
寝台から下りて窓の外を見る。崩れていた屋根の一角が、すっかり元通り――いいえ、元よりずっと立派な青い瓦屋根になっていた。
「どういう、こと……」
慌てて着替えて階段を下りると、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。焼きたてのパンと、ベーコンの匂い。
台所をのぞいた私は、そこで足を止めた。
白い髭をたくわえた背の高い老紳士が、竈の前に立っていた。黒い燕尾服に、真っ白な前掛け。手際よくフライパンを揺すっている。
「おや」
老紳士は振り返り、優雅に一礼した。
「お目覚めでございますか、番様」
「つ、つがいさま……?」
「申し遅れました。竜王陛下にお仕えしております、執事のゴットフリートと申します」
(執事……竜王様の、執事?)
「あの、昨夜は確か、誰もいなかったはずで……」
「はい。陛下にお呼びいただき、夜半に参上いたしました。若い者を十名ほど連れて」
ゴットフリートさんは目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「陛下が、『番が濡れる』と仰いましたので」
「…………」
「屋根の葺き替え、窓硝子の入れ替え、寝室の壁の塗り直し。ひと晩では、そのあたりが限界でございました。お見苦しい点が残っておりましたら、申し訳ございません」
「ひと晩で、そこまで……」
「竜は力仕事が得意でございますから」
さらりと言われて、私は言葉を失った。
そこへ、裏口の扉が開いた。
「起きたか、アニエス」
ヴァルディオス様だった。銀の髪を後ろでひとつに束ね、肩に薪の束を担いでいる。竜王様が、薪を。
「お、おはようございます……あの、これは一体」
「雨漏りは止まっただろう」
「止まりました。止まりましたけれど……!」
「なら、問題ない」
彼は薪を竈の脇に下ろし、満足げに頷いた。
(問題しかない、と申し上げたのは昨夜のことなのに)
「陛下」
ゴットフリートさんが、こほんと咳払いをした。
「番様が戸惑っておいでです。説明が足りないのは、陛下の昔からの悪い癖でございますよ」
「……む」
ヴァルディオス様が、ほんの少しだけ口を尖らせた。まるで、叱られた子どもみたいに。
ゴットフリートさんは私に向き直る。
「番様。陛下は十年間、番様をお迎えするこの日のことばかり考えておいででした。その番様が雨漏りのする部屋で震えていらしたと知って、居ても立ってもいられなかったのでございます。どうか、大目に見てさしあげてくださいませ」
「十年間、ばかり……」
「ええ。王城の宝物庫には、番様に似合いそうな首飾りが山のように」
「ゴットフリート」
「失礼いたしました」
ヴァルディオス様の耳が、ほんのり赤い。
(……首飾りが、山のように?)
聞かなかったことにしたほうがいい気がした。
朝食は居間に運ばれた。いつの間にか、埃をかぶっていた丸テーブルが磨き上げられ、白いクロスがかけられている。
焼きたてのパン、厚切りのベーコン、半熟の卵、温かいスープ。私が持ってきた固い黒パンとは、比べものにならない。
「いただきます……」
ひと口食べて、目を見開いた。
「おいしい……!」
「そうか」
向かいに座ったヴァルディオス様が、なぜか私よりも嬉しそうな顔をする。
「ゴットフリートの料理は、竜の国でいちばんだ」
「お褒めにあずかり光栄にございます。番様のお好みを伺えれば、明日からはさらに」
「あ、あの、それなんですけれど」
私はスプーンを置いた。
「番様、というのは……その、まだ私、きちんとお返事をしていなくて」
昨夜、確かに泣いてしまった。抱きしめられて、温かいと思ってしまった。でも、だからといって、竜王様の番になると頷いたわけではない。
ゴットフリートさんは、ちらりとヴァルディオス様を見た。ヴァルディオス様は黙って頷く。
「では、アニエス様とお呼びいたしましょう」
「……ありがとうございます」
「ただし、陛下にとって番様が番様であることは、何も変わりませんので。そこは、お覚悟を」
(覚悟……)
にこにこと告げるゴットフリートさんに、私はぎこちなく笑うしかなかった。
朝食のあと、私は屋敷の中を見て回った。
変わっていたのは、屋根と窓と寝室だけではなかった。
玄関広間の床は磨かれ、錆びていた燭台は真鍮の輝きを取り戻していた。居間の暖炉の煤は払われ、ひび割れていた壁は塞がれている。屋根裏の鳩は、どこかへ引っ越していた。
「鳩さんたちは……」
「森の大きな木に、新しい巣箱を作ってやったそうだ」
後ろからついてきたヴァルディオス様が答えた。
「お前が気にすると思った」
(……どうして分かったのかしら)
昨日、屋根裏で鳩を見つけたとき、追い出すのはかわいそうだと思ったのだ。誰にも言っていないのに。
「印で、分かるのですか?」
「少しはな。だが、今のは違う」
彼は小さく笑った。
「納屋で、お前は雀にまでパンくずを分けていた。昔から、そういう娘だった」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
十年前の、私さえ忘れていたような小さなことを。この人は、全部覚えている。
「……ヴァルディオス様」
「なんだ」
「ありがとうございます。屋根も、窓も……鳩さんたちのことも」
ヴァルディオス様は、一瞬きょとんとした顔をした。それから、ふい、と顔を背ける。
「礼など、いらない」
ふん、と鼻が鳴る。
(照れていらっしゃる)
思わず、くすりと笑ってしまった。
この屋敷に来てから、初めて声を出して笑った気がした。
(……でも、ひと晩で屋根を直すような方が、これで満足なさるかしら)
嫌な予感が、少しだけした。
その予感が当たっていたと知るのは、翌朝のことだった。




