第4話 番の印
居間の暖炉に薪を組んでいると、ヴァルディオス様が「貸せ」と言って私の横にかがみ込んだ。
彼が指先を近づけた途端、ぼっ、と炎が一気に燃え上がる。
「……今、指先から火が出ませんでした?」
「出たな」
「出たな、ではなくて……」
竜だから、だろうか。私はそれ以上考えるのをやめて、台所で薬草茶を淹れた。カップはひとつしか持ってきていなかったので、彼にはカップを、私は取っ手つきの小鍋を使った。
ヴァルディオス様はカップを受け取り、ひと口飲んで、目を伏せた。
「……同じ味だ」
「え?」
「納屋で、お前が飲ませてくれた。苦くて、少しだけ甘い」
十年前、ミルクにこっそり混ぜていた蜂蜜のことだ。
(そんなことまで、覚えているなんて……)
暖炉の火が、彼の銀髪を橙色に照らす。こうして向かい合うと、改めてその美しさに気後れした。整いすぎた顔立ち。人の姿をしていても、どこか人ではない気配がある。
「聞きたいことが、山ほどあるという顔だな」
「……はい。山ほど」
「なら、順に話そう」
彼はカップを置き、私をまっすぐに見た。
「俺は、北の山脈の向こうにある竜の国の王だ」
「お、王……」
「十年前は、まだ王ではなかった。父王が亡くなり、俺と兄のザルグレアで王位を争っていた。あの冬、俺は兄に襲われて翼を裂かれ、人の国の森に落ちた」
淡々とした口調だった。けれど、膝の上で組まれた指に、わずかに力がこもっている。
「幼竜の身では、傷を癒やす力も足りなかった。あのまま雪の中で死ぬはずだった。……お前が、拾ってくれなければ」
「私は、ただ……放っておけなかっただけです」
「それが、俺にとってすべてだった」
金色の瞳が、私の左手首に向けられた。
「その印は、呪いではない」
どきりとして、私は袖の上から手首を押さえた。
「竜は生涯に一度だけ、魂を分け合う相手を選ぶ。番だ。番を選んだ竜は、相手の身体に己の鱗の印を刻む。他の竜たちに、己の番だと示すために」
「番……」
「アニエス。お前は、俺の番だ」
頭が、まったく追いつかなかった。
番。魂を分け合う相手。竜王の。
(……私が?)
「ま、待ってください」
気づけば、私は小鍋を抱えたまま身を乗り出していた。
「それは、何かの間違いでは……? あのとき私は八歳で、あなたも小さな子竜で……一生の相手を決めるような年では」
「年など関係ない」
「で、でも!」
「番は、最初に会ったときから決めていた」
迷いのない声だった。
「雪の中で死にかけていた俺に、お前が外套をかけてくれた。震える手で、『こわくないよ』と言った。……あの瞬間に、決めた」
顔が熱い。暖炉のせいだと思いたかった。
(そんな、物語の中みたいなこと……)
信じられない。だって私は、呪われた娘だ。婚約者には捨てられ、父には追い出され、使用人にさえ避けられてきた。
「……人違い、ではないでしょうか」
俯いたまま、私は小さな声で言った。
「私は、取り柄のない娘です。義妹のように可愛くもありませんし、家の役にも立ちませんでした。竜王様の番だなんて、そんな……」
「アニエス」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
ヴァルディオス様は、ひどく真剣な顔をしていた。
「俺が、十年間何をしていたか分かるか」
「……王位を、争っていらしたんですよね」
「兄を退け、王になった。兄に与した者たちを抑え、国を固めた。番を迎えても、誰にも脅かされない国にするために」
彼は自分の胸に手を当てた。
「全部、お前を迎えに行くためだった。十年、一日もお前を忘れたことはない。……人違いのはずがないだろう」
言葉が出なかった。
「本当は、国がもう少し落ち着いてから迎えに行くつもりだった。だが、数日前――印を通して、お前の悲しみが伝わってきた」
「印を、通して……?」
「番の印は、互いの心を少しだけ繋ぐ。お前が泣くのを我慢していることも、寒い部屋で震えていることも、全部伝わってきた」
ぎゅっと、喉の奥が痛くなった。
泣かなかったはずなのに。泣いても誰も困らないと思っていたのに。
――この人には、伝わっていた。
「三日三晩、飛んできた。……遅くなって、すまなかった」
ヴァルディオス様が、そっと私の左手を取った。袖をめくり、銀の印を親指でなぞる。
じん、と印が温かくなった。
「……っ」
ぽろり、と涙がこぼれた。
一度こぼれたら、もう止まらなかった。十年分、ずっと堪えていたものが、全部あふれ出してしまったみたいに。
ヴァルディオス様は何も言わず、大きな手で私の頭を引き寄せた。外套越しに、彼の心臓の音が聞こえる。
(……温かい)
泣き止むまで、彼はずっとそうしていてくれた。
「……お見苦しいところを、お見せしました」
ようやく顔を上げると、私は真っ赤になって彼から離れた。
「見苦しくなどない。もっと泣いてもいい」
「泣きません」
「そうか。残念だ」
(残念って……この方、さっきから真顔ですごいことをおっしゃるわ)
「それで、ヴァルディオス様。これから、どうなさるおつもりですか?」
「お前を竜の国へ連れて帰る。……と言いたいところだが」
彼は少し考えるように目を伏せた。
「今のお前を、いきなり知らない国へ連れていくのは酷だろう。お前はまだ、俺の番だということにも頷いていない」
「それは……はい」
「だから、俺がここに住む」
「…………はい?」
「お前がここで暮らすなら、俺もここで暮らす。何か問題があるか」
「も、問題しかありません!」
思わず立ち上がった。
「竜王様が、こんな雨漏りだらけの屋敷にお住まいになるなんて……! お国はどうなさるのですか、それに寝台だって私の分しか」
「国のことは、臣下に任せてある。必要なら飛べばすぐだ」
ヴァルディオス様は、天井の雨染みを見上げた。それから、板を打ちつけた窓。ひびの入った壁。
そして、にやりと笑った。初めて見る、少し意地の悪い笑みだった。
「雨漏りだらけが問題なら――直せばいい」
「直すって、そんな簡単に……」
「簡単だ」
彼は窓を開け、夜空に向かって短く何かを呟いた。人の言葉ではない、低く響く音。
遠くの空で、何かが応えるように鳴いた気がした。
「今夜はもう休め、アニエス。疲れているだろう」
「ヴァルディオス様は……」
「俺は暖炉の前でいい。竜は寒さに強い」
そう言われても、と思ったけれど、泣いたせいかまぶたがひどく重かった。
寝室に戻り、毛布にくるまる。
夜更け、とんとん、と屋根の上で何かを叩く音がした気がした。誰かの話し声も。けれど、私はもう目を開けていられなかった。
――その夜は、雨が降ったのに、一滴も漏ってこなかった。
翌朝。
目を覚ました私は、天井を見上げて、そのまま固まった。
雨染みだらけだった天井が、真っ白に塗り替えられていた。




