第3話 銀の竜
翌朝、雨は嘘のように上がっていた。
鍋と桶にたまった水を捨て、濡れた床を拭き、私は朝から屋敷じゅうを歩き回った。
使えそうな部屋は、台所と寝室のほかに、小さな居間がひとつ。書斎には祖父の蔵書が残っていたけれど、半分は湿気でかびていた。食料庫は空っぽ。屋根裏には鳩が住みついていた。
(……春までに、全部どうにかなるかしら)
昼過ぎ、私は庭に出た。
枯れ草をかき分けると、石で区切られた花壇の跡が見つかった。土を指でほぐしてみる。表面は乾いているけれど、少し掘れば黒く湿った土が出てくる。
「ここなら、薬草が育つかもしれない」
王都から持ってきた種の小袋がある。お母様の薬草の手帳も。
少しだけ、胸が明るくなった。
村まで歩けば、パンや卵くらいは買えるだろう。手持ちのお金は多くないけれど、薬草を育てて売れば、なんとか暮らしていけるかもしれない。
(そうよ。ここで、ひとりで生きていけばいいんだわ)
誰にも奪われない、私だけの暮らし。
夕方まで枯れ草を抜き続け、手のひらにまめを作って、私は満足して屋敷に戻った。
その夜のことだった。
寝台に横になってうとうとしかけたとき、窓硝子がびりびりと震えた。
「……風?」
違う。風の音とは、何かが違う。
ごう、と低いうなりが空から降ってくる。屋敷全体がかすかに揺れ、雨漏り用に置きっぱなしだった鍋がかたかたと鳴った。
私は飛び起きて、窓に駆け寄った。
雲の切れ間から、月が出ていた。その月を――巨大な影が、横切った。
(鳥……? いいえ、あんなに大きな鳥がいるわけ……)
影は屋敷の上空で、ゆっくりと旋回している。月光を受けて、その身体が銀色にきらめいた。
大きな翼。長い尾。
竜だ。
息を呑んだ私の胸元で、銀の鱗がふいに熱を帯びた。同時に、左手首の印が、じんと疼く。
「……っ」
気づいたときには、ランプを手に階段を駆け下りていた。
どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からない。竜が人を襲うことだってあると、本で読んだはずなのに。
玄関の扉を開けた瞬間、強い風が吹きつけた。
枯れた庭の真ん中に、銀色の竜が舞い降りるところだった。
大きい。屋敷の二階に届くほどの体躯。月の光をそのまま固めたような鱗。地面に降り立った竜は、翼をたたみ、ゆっくりと首をこちらへ向けた。
金色の瞳と、目が合った。
(……あ)
その瞬間、竜の身体が光に包まれた。
まぶしさに目を細める。光が収まったとき、そこに竜の姿はなかった。
代わりに立っていたのは、ひとりの青年だった。
背が高い。月光に溶けそうな銀の髪が、肩のあたりまで流れている。黒い外套の裾が、まだ風に揺れていた。
そして、その瞳は――さっきの竜と同じ、金色だった。
青年は一歩、また一歩と私に近づいてくる。私は動けなかった。怖かったからではない。その金色の目を、どこかで知っている気がしたから。
手を伸ばせば届く距離で、青年は足を止めた。
「……アニエス」
低く、少しかすれた声だった。
(どうして、私の名前を……)
「迎えに来た、アニエス」
青年はそう言ってから、ふっと苦笑した。
「……いや。追いかけてきた、が正しいか」
「あ、あの……どちら様、でしょうか」
ようやく出た声は、自分でも情けないくらい震えていた。
青年の眉が、ほんの少し下がる。まるで、叱られた子犬みたいに。
「覚えて、いないのか」
「え……」
「無理もない。あの頃の俺は、お前の膝に乗るくらい小さかったからな」
膝に、乗るくらい。
手の中のランプが、かたりと揺れた。
青年は外套の襟元をゆるめ、左の肩をはだけて見せた。月明かりの下、白い肌に古い傷跡が走っている。鋭い爪で裂かれたような、長い傷。
それは、あの冬、子竜の翼に走っていた傷と、同じ形をしていた。
「お前が薬草を塗ってくれた傷だ。……苦い薬だった」
「……うそ」
喉がひきつる。
「だって、あの子は、こんなに小さくて……」
両手で子犬ほどの大きさを作ってみせると、青年は目を細めた。
「十年経てば、竜も育つ」
「…………ノエル?」
その名前を口にした瞬間。
青年の顔が、見る間に赤くなった。
「……っ、その名で、呼ぶな」
「え、あ、ごめんなさい……!」
「違う。嫌なわけではない」
彼は片手で口元を覆い、目を逸らした。耳の先まで赤い。
「十年ぶりに呼ばれると……その、心臓に悪い」
(……照れて、いらっしゃる?)
目の前の大きな青年が、あの小さなノエルなのだと――それだけは、もう疑えなかった。
だって、照れたときに鼻を鳴らす癖が、あの頃のままだったから。
ふん、と小さく鼻を鳴らしてから、彼は改めて私に向き直った。
「俺の本当の名は、ヴァルディオスだ」
「ヴァルディオス……様」
「様はいらない。……と言っても、今は無理か」
彼はちらりと屋敷を見上げ、崩れた屋根と、板を打ちつけた窓を眺めた。
金色の瞳が、すうっと冷えていく。
「――ひどい場所だな」
その声に、ぞくりとするほどの怒りがにじんでいた。
「お前を、こんなところに追いやったのか。あの家の者たちは」
(怒って、くださっているの……? 私のために?)
そんなふうに誰かが怒ってくれたのは、お母様が亡くなってから初めてだった。
「あ、あの、ヴァルディオス様。とりあえず、中へ……ここは冷えますから」
私が慌てて言うと、彼の表情がふっとやわらいだ。
「……ああ。そうだな」
そして、当たり前のように私の手からランプを取り上げ、もう片方の手で私の手を握った。
大きくて、驚くほど温かい手だった。




