第2話 北の廃屋敷
ヴィントベルクに着いたのは、王都を出て十一日目の夕方だった。
御者は屋敷の門の前で荷物を下ろすと、礼もそこそこに馬車を返した。
「お嬢様、あとはご自分で。……春までは、もう誰も来ませんので」
「ええ。ここまでありがとう」
遠ざかる車輪の音を聞きながら、私は振り返った。
(……これが、リーヴェル家の別邸)
灰色の石造りの二階建て。かつては立派だったのだろう。けれど今は、蔦が壁一面を覆い、窓硝子はあちこち割れて板が打ちつけてある。屋根の一角は崩れ落ち、空が見えていた。
門から玄関まで続く庭は、枯れた草で埋め尽くされている。噴水だったらしい石の器には、泥水が溜まっていた。
「……幽霊屋敷みたい」
思わず呟いて、自分で笑ってしまう。
軋む扉を押し開けると、埃とかびの匂いが鼻を突いた。
玄関広間には、白い布をかけられた家具がいくつも並んでいる。床には落ち葉が吹き込み、壁の燭台は錆びついていた。
(台所と、寝室と……とにかく今夜眠れる場所を作らなくちゃ)
私は外套を脱いで袖をまくった。
伯爵令嬢らしからぬことだと、継母はよく眉をひそめた。けれど使用人に避けられていた私は、自分の部屋の掃除も繕い物も、全部自分でしてきたのだ。こんなところで役に立つなんて、皮肉なものね。
井戸は幸い、まだ生きていた。
桶で水を汲み、台所の竈の灰をかき出し、どうにか火をおこす。持ってきた干し肉と黒パンで簡単な夕食をすませた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
寝室に選んだのは、二階の南側の小さな部屋だ。屋根が崩れているのとは反対側で、窓も割れていない。寝台の埃を払い、持参した毛布を広げる。
(……うん。思っていたより、悪くない)
王都の屋敷では、私が部屋に入ると、家族の笑い声がぴたりと止んだ。廊下ですれ違うたび、使用人たちは印のある左手を避けるように身を引いた。
ここには、誰もいない。だから、誰にも避けられない。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
ぽつ、と冷たいものが頬に落ちたのは、そのときだった。
「……え?」
見上げると、天井の染みから水滴がにじんでいる。ぽつ、ぽつ。窓の外で、雨の音が強くなっていく。
「待って、ここは崩れていない側でしょう……!」
慌てて台所へ駆け下り、鍋と桶を抱えて戻る。寝台の上、床の真ん中、窓際。雨漏りは一か所どころではなかった。
結局、寝台を部屋の隅まで引きずり、鍋と桶を五つ並べたところで、ようやく落ち着いた。
ぽちゃん。ぽちゃん。
水滴が器を叩く音を聞きながら、私は毛布にくるまって膝を抱えた。
(……ひとりの方が気楽、なんて強がったけど)
寒い。それに、少しだけ心細い。
私は首から下げた小袋を開け、銀の鱗を取り出した。王都を出るとき、木箱から移して肌身離さず持ってきたものだ。
蝋燭の灯りに透かすと、鱗の奥で青い光がゆらめく。
十年前のあの冬も、こんなふうに冷たい雨が雪に変わる季節だった。
八歳の私は、継母とベアトリスが屋敷に来てから、よくひとりで裏の森へ逃げ込んでいた。
その日も、雪の積もった森を歩いていた。そして倒木の陰で、それを見つけた。
銀色の、小さな竜。
大きさは子犬ほど。片方の翼が裂け、雪の上に赤い染みが広がっていた。
竜は私に気づくと、金色の目でこちらを睨み、か細い声で威嚇した。けれど、立ち上がる力も残っていないようだった。
「……だいじょうぶ。こわくないよ」
私は外套を脱いで、竜をくるんだ。暴れる力もなかったのか、竜はされるがままだった。
森の外れの古い納屋に運び込み、藁を敷いて寝かせた。亡くなったお母様に教わった薬草を雪の下から掘り出して、すり潰して傷に塗った。台所からこっそりくすねたミルクと肉を運んだ。
「あなたのお名前、なんていうの?」
竜は答えない。
「じゃあ、ノエルね。雪の日に会ったから」
ノエルは嫌そうに鼻を鳴らしたけれど、三日目には私の手から肉を食べるようになった。五日目には、私の膝の上で眠るようになった。
七日目の朝。納屋へ行くと、ノエルは裂けていた翼を広げていた。傷は、すっかりふさがっていた。
「……もう、飛べるの?」
ノエルは私の前まで歩いてくると、じっと私を見上げた。そして、私の左手首に鼻先を押し当てた。
焼けるように熱くて、なのに少しも痛くなかった。
ノエルが顔を離すと、そこには銀色の鱗模様が浮かんでいた。
「ノエル……?」
小さな竜は一度だけ高く鳴いて、空へ舞い上がった。
足元に、銀色の鱗を一枚残して。
ぽちゃん、と桶に水が落ちる音で、我に返った。
「……馬鹿ね。今さら、何を思い出しているのかしら」
あの子が今どこにいるのか、生きているのかさえ分からない。竜は気まぐれな生き物だと、本で読んだことがある。きっと人間の子どものことなんて、とっくに忘れているだろう。
(それでいいの。あの子が元気なら、それで)
それでも私は、鱗を握りしめたまま目を閉じた。
雨音の向こうで、遠い雷が鳴った気がした。




