第1話 呪いの印
十八歳の誕生日の朝、私は父の書斎ではなく、応接間に呼び出された。
応接間は、客人を迎えるための部屋だ。家族の私が呼ばれることは、まずない。
(……お客様がいらしているのかしら)
そう思いながら扉を叩くと、中から返ってきたのは継母イルゼの、妙に機嫌のいい声だった。
「お入りなさい、アニエス」
扉を開けた瞬間、嫌な予感は確信に変わった。
長椅子には父と継母。その向かいに、義妹のベアトリスが座っている。そしてベアトリスの隣、ぴったりと寄り添うように腰かけていたのは――私の婚約者、セドリック・ハーヴェイ様だった。
(どうして、セドリック様がベアトリスの隣に……?)
セドリック様は私と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。代わりにベアトリスが、蜂蜜色の巻き毛を揺らして小首をかしげる。
「お姉様、お誕生日おめでとうございます」
「……ありがとう、ベアトリス」
「でもごめんなさい。今日はお祝いのお話じゃないの」
ベアトリスは目を潤ませ、セドリック様の袖をきゅっとつかんだ。
十六歳の義妹は、人形のように愛らしい。泣き顔ひとつで大人たちを味方につける術を、彼女は幼い頃から知っている。
「座りなさい、アニエス」
父の声は低く、冷たかった。私は言われるまま、ひとつだけ離れて置かれた椅子に腰を下ろす。家族と婚約者が並ぶ向かい側に、私だけがぽつんと座る形になった。
(まるで、裁判みたい)
「単刀直入に言おう」
口を開いたのは、セドリック様だった。
「アニエス。君との婚約を、破棄させてもらう」
頭の中が、すっと白くなった。
「……理由を、お聞きしてもよろしいですか」
「理由なら、君がいちばんよく分かっているはずだ」
セドリック様の視線が、私の左手首に落ちる。
私は反射的に、袖口を引き下ろした。そこには、銀色の痣がある。細い鱗を何枚も重ねたような、不思議な形の痣だ。
八歳の冬までは、なかったもの。
「その呪いの印のせいで、ベアトリスがどれほど苦しんできたか」
「苦しんで……?」
「お姉様、隠さなくていいのよ」
ベアトリスが、震える声で言った。
「わたくし、お姉様のそばにいると、いつも胸が苦しくなるの。夜は悪い夢ばかり見るし、この前は熱まで出したわ。お医者様も原因が分からないって……。きっと、その印のせいなのよ」
(熱を出したのは、夜会で薄着のまま庭に出ていたからでは……)
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。ここで何を言っても、私が義妹をいじめた話にすり替わるだけだ。この十年で、嫌というほど学んだ。
「それだけではありませんわ」
継母がぱちりと扇を閉じる。
「去年の領地の不作も、あなたの印のせいだと皆が言っているの。使用人たちも気味悪がって、あなたの部屋の掃除をいやがるのよ」
(不作は、三年続いた日照りのせいで……それに私の部屋は、もう何年も自分で掃除しているわ)
心の中でだけ反論して、私は膝の上で両手を握りしめた。
「セドリック殿は、ベアトリスと婚約し直すことになった」
父が淡々と告げる。
「ハーヴェイ侯爵家との縁は、我が家にとって大切なものだ。呪われた娘を嫁がせて、侯爵家に災いを持ち込むわけにはいかない」
「……お父様」
「それから、アニエス。お前には、北の辺境ヴィントベルクの別邸へ移ってもらう」
今度こそ、息が止まった。
ヴィントベルク。王都から馬車で十日はかかる、国の北の果て。冬は雪に閉ざされ、夏も短い土地だ。祖父の代に建てた別邸があるとは聞いていたけれど、もう二十年近く誰も住んでいないはずだった。
「わたくしたちだって心苦しいのよ?」
継母が、まったく心苦しくなさそうに微笑む。
「でもね、アニエス。あなたがこの家にいると、ベアトリスの婚約にまで傷がつくの。分かってちょうだい」
「出発は三日後だ。荷物はまとめておけ」
父はそれだけ言うと、もう私を見なかった。
セドリック様も、こちらを見ない。ベアトリスだけが、彼の肩越しに私を見て――ほんの一瞬、唇の端を持ち上げた。
(ああ、そう。最初から、これが欲しかったのね)
婚約者も。家の中の居場所も。お母様の形見の首飾りも、お気に入りだった刺繍の手巾も。ベアトリスは、私のものを何でも欲しがった。そして父は、いつも彼女に与えた。
だから、今さら驚くことではないのかもしれない。
「……承知いたしました」
私は立ち上がり、きちんと礼をした。
泣いたら負けだと思った。いいえ、泣いても誰も困らないのだと分かっていたから、泣かなかった。
自室に戻ると、私は寝台の下から小さな木箱を取り出した。
中に入っているのは、手のひらほどの銀色の鱗が一枚。
窓から差し込む光を受けて、鱗はかすかに青く光った。
「……ねえ、ノエル」
十年前、私がこっそり看病した子竜の名前を呼ぶ。
「あなたがくれた印のせいで、追い出されることになったわ」
責めるつもりはなかった。ただ、誰かに聞いてほしかっただけだ。
この印を呪いだと思ったことは、一度もない。あの冬、傷だらけの小さな竜が私の手首に鼻先を押し当てた、その温かさだけは、今でもはっきり覚えている。
(あの子は今、どこにいるのかしら。元気で、空を飛んでいるといいけれど)
「……でも、ちょうどいいのかもしれないわね」
鱗を胸に抱いて、私は小さく笑った。
「誰もいない場所なら、もう誰にも何も奪われないもの」
三日後。
見送りに出てきたのは、年老いた庭師ひとりだけだった。
「お嬢様。どうか、お身体だけは」
「ありがとう、トマス。庭の薔薇を、よろしくね」
お母様が植えた薔薇だった。それすら、私には持っていけない。
馬車が門を出るとき、屋敷の二階の窓に、ベアトリスの蜂蜜色の髪が見えた気がした。
私は振り返らなかった。




