第10話 竜の姫
夜空に浮かんだまま、赤い髪の少女は腕を組んでこちらを睨んでいた。
銀の竜――ヴァルディオス様が、低く唸る。地鳴りのような声に、私は思わず鱗にしがみついた。
少女は一瞬ひるんだものの、すぐに顎を上げた。
「唸っても無駄ですわ、従兄様。わたくし、長老会の名代として参りましたの」
ヴァルディオス様はもう一度短く唸ると、くるりと向きを変え、屋敷へと降りていった。赤い竜の少女も、翼をはためかせてついてくる。
庭に降り立つと、銀の竜は光に包まれて人の姿に戻った。そして、首から滑り落ちそうになった私を、当然のように両腕で抱きとめた。
「あ、ありがとうございます……」
「足は冷えていないか」
「大丈夫です」
「イングリット」
私を地面に下ろしながら、ヴァルディオス様は少女のほうを見もせずに言った。
「何をしに来た」
「ですから、長老会の名代ですわ!」
イングリットと呼ばれた少女も、人の姿で庭に降り立った。燃えるような赤い髪に、ヴァルディオス様と同じ金色の瞳。年は私と同じくらいだろうか。気の強そうな、けれどとても美しい顔立ちだった。
「竜王ともあろう方が、ひと月近くも国を空けて辺境に入り浸り。長老たちはかんかんですわ。それで、いったい何を――」
イングリットは屋敷を振り返り、そこで言葉を止めた。
青い瓦屋根。白い薔薇の庭。噴水。玄関の扉越しに、シャンデリアの光が漏れている。
「……なんですの、このお屋敷」
「俺の番の家だ」
「あのシャンデリア、王城の大広間にあったものではありませんこと!?」
「よく似合っているだろう」
「似合う似合わないの話ではありませんわ!」
(王城の、大広間の……)
私は聞かなかったことにした。最近、聞かなかったことにするのが上手になった気がする。
私は一歩前に出て、ドレスの裾をつまんで礼をした。
「はじめまして。アニエス・リーヴェルと申します」
イングリットは、私を頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺めた。
「……人間に名乗る名などありませんわ」
「イングリット」
「わ、分かっていますわよ! イングリットですわ。竜王の従妹ですの」
ぷい、と顔を背けて、彼女は名乗った。
(……あら?)
ヴァルディオス様の照れたときの仕草に、少しだけ似ている気がした。
居間に通すと、ゴットフリートさんが香りのいいお茶を淹れてくれた。
「ゴットフリートまでいるなんて。従兄様、本気でここに住むおつもりですの?」
「本気だ」
「呆れましたわ」
イングリットはカップを置き、私に向き直った。その金色の瞳は、さっきまでの子どもっぽい怒り方とは違う、冷たい光を帯びていた。
「あなた、竜族の掟をご存じ?」
「……いいえ」
「でしょうね。教えて差し上げますわ」
彼女は背筋を伸ばし、まるで何度も暗唱してきたかのように語り始めた。
「先々代の竜王陛下は、人間の娘を番になさいました。陛下は番をそれは大切になさって、竜の国はたいそう栄えたそうですわ。けれど――人間の命は短い。番の方は五十年ほどで年老いて、お亡くなりになりました」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「番を失った竜は、魂の半分を失うのと同じ。先々代の陛下は嘆きのあまり正気を失い、三日三晩、竜の国を焼き続けました。王城も、街も、山も」
「……」
「わたくしの祖父は、そのとき陛下を止めようとして、炎の中で亡くなりましたの」
息が、詰まった。
「それ以来、竜族は人間を番にすることを禁じました。それが掟ですわ」
「俺は狂わない」
ヴァルディオス様が、静かに言った。
「皆そうおっしゃいますのよ、従兄様」
イングリットは、従兄を見ずに私だけを見つめていた。
「あなたが従兄様を本当に大切に思うなら、身を引きなさい。五十年後、従兄様をひとり残して、国ごと燃やさせたくなければ」
「イングリット!」
ヴァルディオス様の声と同時に、部屋の温度がぐっと上がった。暖炉の炎が、天井近くまで噴き上がる。
「陛下」
ゴットフリートさんが、そっと声をかけた。
「アニエス様が、驚いておいでです」
ヴァルディオス様ははっとして私を見た。炎が、すうっと小さくなる。
「……すまない」
「いえ……」
私は膝の上で、左手首を握りしめていた。
(五十年……)
考えたこともなかった。竜は何百年も生きる。ヴァルディオス様は、ずっと若いままで。私だけが年を取って、しわだらけになって、いつか――。
あの人をひとり残して、いなくなる。
「長老たちは、三日後にここへ参りますわ」
イングリットが立ち上がった。
「それまで、わたくしもこのお屋敷に滞在させていただきます。この人間が、どんな方なのか見極めるために」
「勝手に決めるな」
「長老会の名代ですもの。客間をお借りしますわね」
そう言い捨てて、イングリットはつかつかと居間を出ていった。
残された部屋に、重い沈黙が落ちる。
「アニエス」
「……大丈夫です」
私は顔を上げて、笑ってみせた。うまく笑えていたかどうかは、分からない。
「イングリット様は、ヴァルディオス様のことが心配なのですね」
「……あいつは、昔からああだ」
ヴァルディオス様は、ひどく苦い顔をしていた。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
寝台の上で、何度も左手首の印をなぞる。月明かりの中で、銀の鱗模様がかすかに光っている。
(呪いではなかった。この方の、番の証だった)
それがやっと、嬉しいと思えるようになってきたところだったのに。
廊下の向こうから、ゴットフリートさんの穏やかな声が聞こえた。
「イングリット様、湯からお上がりになりましたか。もう二刻になりますが」
「う、うるさいですわね! 少し……気に入っただけですわ!」
私は思わず、毛布の中で小さく笑った。
それから、笑ったことが少しだけ悲しくなって、目を閉じた。




