第17話 竜の国へ
リーヴェル家の人々が王都へ戻ってから、ひと月が過ぎた。
ゴットフリートさんの話では、父は子爵への降格とともに領地の大半を失い、家令の不正が明るみに出たことで、残った財産の多くも返済に消えたそうだ。継母は実家に助けを求めたけれど、門前払いされたらしい。
ハーヴェイ侯爵家は、ベアトリスとセドリック様の婚約を正式に白紙に戻した。偽りの告発の話は社交界にあっという間に広まり、ベアトリスに縁談を持ち込む家は、もうどこにもないという。遠縁を頼って、王都を離れた田舎へ移ることになったと聞いた。
セドリック様は、侯爵家の跡継ぎから外され、国境の警備隊へ送られたそうだ。
「……そうですか」
聞き終えても、胸がすくような気持ちにはならなかった。かといって、悲しくもなかった。
ただ、遠い国の話を聞いているような気がした。
(もう、私の家族ではないのね)
首元で、お母様の青い首飾りが小さく揺れた。
「アニエス」
窓辺に立っていたヴァルディオス様が、振り返った。
「長老会議が、再開される。……一緒に来てくれるか」
竜の国へ。
十年前、傷の癒えた子竜が帰っていった、山の向こうへ。
「はい」
私は、迷わずに頷いた。
銀の竜の背に乗って、北の山脈を越えた。
雪をかぶった峰々の向こうに、それは突然現れた。
切り立った岩山の斜面に、白い石の街が段々に広がっている。いくつもの塔が空に伸び、その間を、色とりどりの竜たちが行き交っていた。いちばん高い峰の頂には、銀の屋根をいただいた巨大な城がそびえている。
「……きれい」
思わず呟くと、竜がうれしそうに喉を鳴らした。
城の広場に降り立つと、たくさんの竜たちが人の姿で集まっていた。皆、私を見ている。ひそひそと囁き交わす声が聞こえた。
「あれが、陛下の番……」
「人間だ」
「黒鉄の枷を砕いたというのは、本当か」
ヴァルディオス様が、私の手をしっかりと握った。
「顔を上げていろ。お前は、俺の番だ」
「……はい」
私は背筋を伸ばして、城の大扉をくぐった。
長老会議の広間は、天井が見えないほど高かった。
半円形に並んだ石の席に、長老たちが座っている。中央にヴェルムント様。その傍らに、なぜかイングリットが分厚い古文書を抱えて立っていた。
「では、始めましょう」
ヴェルムント様が、杖で床を打った。
「議題は、人間を番とすることを禁じた掟について。……イングリット殿」
「はい」
イングリットが一歩前に出た。私と目が合うと、ほんの一瞬だけ、小さく頷いてくれた。
「わたくし、王城の書庫に眠っていた先々代の御代の記録を、この一月で調べ直しましたの」
彼女は古文書を開いた。
「番の印は、竜が相手に刻むもの。けれど、印はそれだけでは完成しません。番となる者が、自らの言葉で誓いを返したとき、初めて二つの魂は完全に結ばれ――番は竜と、力も、時も、分かち合うのです」
広間が、ざわめいた。
「時を……?」
「つまり、寿命ですわ」
イングリットは、きっぱりと言った。
「誓いを交わした番は、竜と同じだけの時を生きる。古い時代には、人間の番が何百年も竜とともに生きた記録が、いくつも残っておりましたの」
「では、先々代の陛下の番は……」
長老のひとりが呟いた。
答えたのは、ヴェルムント様だった。
「……あの方は、誓いを返されなかった」
老人の声は、ひどく静かだった。
「わしは当時、先々代の陛下にお仕えしておった。陛下は、ある村で見初めた娘を、その日のうちに竜の国へ連れ帰られた。娘の意思を、確かめることもなく」
広間が、しんと静まり返った。
「あの方は、陛下を嫌ってはおられなかったと思う。だが、故郷を想って、いつも窓の外を見ておられた。最後まで、誓いの言葉を口にされることはなかった」
ヴェルムント様は、目を閉じた。
「印が完成せぬまま、あの方は人の時を生き、人として逝かれた。……我らは、番を失った陛下の狂乱だけを恐れ、その理由を見ようとしなかった。間違った教えを、掟にしておったのだ」
長い沈黙が落ちた。
やがて、ヴェルムント様は目を開け、私を見た。
「アニエス殿。そなたの印は、まだ誓いを交わしておらぬにもかかわらず、霜狼を退け、黒鉄の枷を砕いた。それほど深く結ばれた番を、わしは知らぬ」
老人は、杖をついて立ち上がった。そして、私に向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「長老会は、掟を改める。そなたを、竜王陛下の番として認めよう。……どうか、陛下をよろしく頼む」
「……っ」
言葉が出なかった。
隣で、ヴァルディオス様が、私の手を強く握りしめた。
会議が終わったあと、城の回廊でイングリットが待っていた。
「イングリット様。本当に、ありがとうございました」
「べ、別に、あなたのためではありませんわ。従兄様が国を燃やすのを防ぐためですもの」
そう言いながら、イングリットは顔を背けた。耳の先が、赤い。
「……それから」
「はい」
「お、お義姉様と、呼んで差し上げてもよろしくてよ」
私は、目を瞬かせた。
それから、思わず笑ってしまった。
「何を笑っていますの!」
「いいえ。嬉しくて」
「……ふん。それと、あのお屋敷の温泉には、また入りに行きますわ。従兄様が許さなくても行きますからね」
「いつでも、いらしてください」
イングリットは「ふん」ともう一度鼻を鳴らして、足早に去っていった。その足取りが、少しだけ弾んでいるように見えた。
「アニエス」
ヴァルディオス様が、私の隣に並んだ。
「誓いの言葉は、どうすればいいのですか?」
私が尋ねると、彼は少しだけ困ったような顔をした。
「決まった形はない。お前の言葉でいい。……だが」
「だが?」
「ここでは、聞きたくない」
金色の瞳が、やわらかく細められた。
「お前の家で、聞かせてくれ」
私の、家。
丘の上の、あの屋敷。
「……はい」
胸の奥が、温かいもので満たされていった。




