第18話 番として
最終話になります。
ヴィントベルクに戻った翌日、初雪が降った。
薬草畑は藁で覆われ、白い薔薇の庭は一面の銀世界になった。屋敷の裏の温泉からは、いつもより濃い湯気が立ちのぼっている。
その日の夜。夕食のあと、ヴァルディオス様が妙に落ち着かない様子で言った。
「アニエス。少し、外に出ないか」
「雪の中を、ですか?」
「見せたいものがある」
ゴットフリートさんが、なぜか満面の笑みで毛皮の外套を着せてくれた。
ランプを手に、ヴァルディオス様に手を引かれて、屋敷の裏手へ回る。温泉の脇を抜け、森との境目の小道を少し歩いたところで、彼は足を止めた。
そこに、小さな納屋が建っていた。
「……え」
古びた木の壁。傾きかけた屋根。少し歪んだ扉。
見覚えがあった。十年前の、あの納屋に、そっくりだった。
「お前の故郷の森まで、飛んで見に行った」
ヴァルディオス様が、少し照れたように言った。
「あの納屋は、もう崩れてなくなっていた。だから、覚えている限りで、建てた」
「建てた、って……いつの間に」
「お前が眠っている間に、少しずつ。ゴットフリートたちに手伝わせたが、釘は俺が打った」
(だから、ゴットフリートさんがあんなに笑っていたのね)
扉を開けると、中には藁が敷かれていた。小さな窓から、雪明かりが差し込んでいる。
十年前と、同じ匂いがした。
「……ここで、お前は俺を拾った」
ヴァルディオス様が、藁の上に膝をついた。ちょうど、あの日、傷ついた子竜が横たわっていた場所に。
そして、私を見上げた。
金色の瞳。十年前、雪の中から私を見上げていた子竜と、同じ目。
「アニエス・リーヴェル」
低く、少しかすれた声だった。
「十年前、俺はここでお前に命をもらった。その日から、俺の魂はお前のものだった」
彼は、私の左手を取った。
「俺の番に――俺の妻に、なってくれないか」
喉の奥が、熱くなった。
あの日、この人は小さな子竜だった。私は、ひとりぼっちの八歳の女の子だった。
あれから十年。追放された辺境で、この人は私を見つけてくれた。屋根を直して、庭に花を咲かせて、私の望みを聞いてくれた。私の代わりに怒ってくれて、私が自分の口で言えるまで、待っていてくれた。
答えは、とっくに決まっていた。
私は、彼の前に膝をついた。藁が、かさりと鳴った。
「ヴァルディオス様」
両手で、彼の手を包む。
「私は、あなたの番になります。あなたの妻になります」
声が震えた。それでも、最後まで言った。
「あなたと同じ時を、あなたの隣で生きていきます。……五十年でも、五百年でも。ずっと」
その瞬間。
左手首の印が、まばゆい銀色に輝いた。
鱗の模様が、光とともに広がっていく。手首をぐるりと一周し、細い腕輪のような形になって、静かに落ち着いた。
そして、同じ光が、ヴァルディオス様の左手首にも灯った。銀の鱗模様が、私のものと寸分違わぬ形で、彼の肌に刻まれていく。
「これが……誓い」
ヴァルディオス様は、自分の手首を見つめていた。
それから、私の手首を持ち上げて、そっと唇を寄せた。
印に、口づけが落ちる。
温かかった。十年前、子竜が鼻先を押し当てたときと、同じ温かさだった。
「……ありがとう」
ヴァルディオス様が、かすれた声で言った。
「待っていて、よかった」
次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。
納屋の中の空気が、ふわりと暖かくなる。窓の外で、屋根に積もった雪が、とさりと溶け落ちる音がした。
「ヴァルディオス様、雪が……」
「仕方ないだろう」
私の髪に顔を埋めたまま、彼は言った。
「今、俺は世界でいちばん心が乱れている」
私は笑って、彼の背中に腕を回した。
春。
丘の上の屋敷の庭で、小さな結婚式が開かれた。
白い薔薇のアーチの下に、村の人たちが集まった。トビとその姉は花びらの籠を抱え、イングリットは「人間の式は地味ですわね」と言いながら、誰よりも早く最前列の席に座っていた。ヴェルムント様も、長老たちを連れて山を越えてきてくれた。
ゴットフリートさんは、朝から泣いていた。
「陛下が……陛下が、ようやく……」
「ゴットフリート、泣くのは早い」
「申し訳ございません。十年分でございますので」
お母様の青い首飾りをつけて、私はヴァルディオス様の隣に立った。
村の神父様の言葉は短かった。けれど、誓いの口づけのあと、村じゅうから歓声が上がった。
屋敷は、相変わらず少しずつ豪華になっていく。
東の棟には、薬草を研究するための書庫と調合室ができた。西の棟は、村の人たちが病気のときに休める療養所になった。冬になると、ヴァルディオス様が竜の国から医術の本を運んでくる。
竜の国の王城には、年の半分ほど通っている。けれど、私たちの家は、この丘の上の屋敷だ。ヴァルディオス様が、そう決めた。
「お前が最初に、ここで暮らしたいと言った場所だからな」
今朝も、薬草畑で並んでしゃがみ込みながら、彼はそう言った。
種を三粒ずつ蒔くのは、すっかり上手になった。
「ねえ」
私は、土のついた指で彼の袖を引いた。
「なんだ」
周りに誰もいないのを確かめてから、小さな声で呼ぶ。
「ノエル」
ぼっ、と。
薬草畑の隅で、まだ蕾だったカモミールが、いっせいに花を開いた。
村へ続く道のほうから、トビの叫ぶ声が聞こえてくる。
「あー! また竜王様が照れてる!」
ヴァルディオス様は、耳まで真っ赤になって顔を覆った。
私は声を上げて笑った。
追放された辺境の、ボロ屋敷だった場所で。
十年前に救った小さな竜と、これから何百年も続く毎日を、一緒に。
(完)
これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!
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