第16話 私はここで生きる
広間の長テーブルを挟んで、私たちは向かい合った。
片側には、父と継母、ベアトリス、セドリック様。もう片側には、私とヴァルディオス様。ゴットフリートさんが、少し離れた壁際に控えている。
王都の応接間で、婚約破棄を言い渡されたあの日と、ちょうど逆だった。
「いや、実に見事なお屋敷だ」
父が、落ち着きなく広間を見回しながら口を開いた。
「アニエス。父はな、お前をここへ送ったことを、ずっと悔やんでいたのだよ。あれは継母が――いや、皆が少々、思い詰めていてな」
「あなた!」
継母が、父の袖を引いた。父は咳払いをして続ける。
「とにかくだ。陛下とのご縁がまとまったのなら、なおのこと、婚儀は伯爵家から送り出さねばならん。さあ、一緒に王都へ帰ろう。支度は、全部こちらで整えてやる」
「お断りいたします」
広間が、しんと静まった。
「……何だと?」
「王都へは帰りません。リーヴェル家から送り出していただく必要も、ございません」
父の顔が、みるみる赤くなった。
「父親の言うことが聞けんのか! 娘の婚姻は、家長が決めるものだ!」
その瞬間、広間の温度がぐんと上がった。
テーブルの上の燭台の蝋燭が、ぐにゃりと曲がる。父の額に、玉のような汗が噴き出した。
「伯爵」
ヴァルディオス様の声は、静かだった。
「俺の番に、声を荒らげるな」
「は、はい……っ」
父が縮み上がる。
そのとき、ベアトリスが立ち上がった。
「竜王様。お許しください、父は動揺しているだけですの」
蜂蜜色の巻き毛を揺らし、目を潤ませて、ヴァルディオス様のほうへ一歩近づく。
「でも、どうか聞いてくださいませ。お姉様は、昔からわたくしにつらく当たって……わたくし、何度も泣かされましたの」
(……また、それ)
「それに」
ベアトリスは、ちらりと私を見た。唇の端が、かすかに持ち上がる。
「本当のことを申し上げますわ。十年前の冬、森で傷ついた子竜を最初に見つけたのは、わたくしなのです。お姉様は、それをわたくしから取り上げて、自分が助けたことにしたのですわ」
――息が、止まった。
継母が、すかさず頷く。
「そうですわ、陛下。ベアトリスはあの頃、毎日森へ出かけておりましたもの」
ヴァルディオス様は、表情ひとつ変えなかった。
「……そうか。なら、聞こう」
金色の瞳が、ベアトリスを捉える。
「その竜を、どこで手当てした」
「え……そ、それは、お屋敷の、温室で」
「傷には、何を塗った」
「お、お医者様のお薬を……」
「食べさせたものは」
「パンと、果物と……」
「名は。お前は、その竜を何と呼んだ」
ベアトリスの口が、ぱくぱくと動いた。声が出ない。
ヴァルディオス様は、ゆっくりと立ち上がった。
「森の外れの、古い納屋だ。藁の上だった」
一言ずつ、刻むように。
「傷に塗ったのは、雪の下から掘り出した白花草。苦かった。食べさせてもらったのは、台所からくすねてきた肉と、蜂蜜を混ぜたミルク。そいつは自分の朝食まで俺に寄越して、腹を鳴らしていた。雀にまでパンくずをやっていた」
ヴァルディオス様は、私を見た。
「名は――アニエスが知っている。お前の口から、その名を聞くつもりはない」
ベアトリスの顔から、血の気が引いていった。
「それに、番の印は偽れない」
ヴァルディオス様が私の左手を取り、袖をめくる。銀の鱗模様が、彼の指に触れて淡く光った。
「お前が十年前に竜を拾ったのなら、この印はお前の手首にあるはずだ。……どこにある」
ベアトリスは、何も言えなかった。
「アニエス様」
壁際から、ゴットフリートさんが一歩進み出た。
「王都で、伯爵家の使用人方から少々お話を伺ってまいりました。ベアトリス様が熱を出された夜、薄着で庭に出ておられたのを、何人もが見ておりました。それから――」
ゴットフリートさんの視線が、ベアトリスの胸元に向けられた。
そこには、青い石の首飾りが下がっていた。
(……あれは)
見間違えるはずがない。お母様の首飾りだ。十年前、ベアトリスが「お姉様には似合わないから」と持っていったもの。
「その首飾りは、先代の伯爵夫人が、ご自分の娘に遺すと遺言なさったものだと。家令殿の帳面に記録が残っておりました」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
足が震えた。けれど、声は震えなかった。
「ベアトリス。その首飾りを、返して」
「い、いやよ! これは、わたくしが」
「返して」
もう一度、言った。
十年間、一度も言えなかった言葉だった。
ベアトリスは唇を噛み、助けを求めるように継母を見た。継母は目を逸らした。父は汗を拭うばかりだった。セドリック様は、テーブルの木目を見つめていた。
「――返せ」
ヴァルディオス様の一言で、広間の空気が揺らいだ。
ベアトリスは小さく悲鳴を上げ、震える手で首飾りを外して、テーブルの上に置いた。
私はそれを、両手でそっと包んだ。冷たい石が、手のひらの中で少しずつ温まっていく。
(おかえりなさい、お母様)
「アニエス」
声をかけてきたのは、セドリック様だった。
「僕は、間違っていた。ベアトリスの言葉に惑わされて……本当は、ずっと君のことを」
「セドリック様!?」
ベアトリスが、悲鳴のような声を上げる。
私は、セドリック様を見た。
「セドリック様。応接間で婚約を破棄されたあの日、あなたは一度も私を見ませんでした」
「それは……」
「私は、覚えています」
それだけ言って、私は目を逸らした。
もう、言うことはなかった。
私は首飾りを胸に抱き、テーブルの向こうの家族を見渡した。
「お父様。お義母様。ベアトリス」
深く息を吸う。
「私は、ここで生きます。この屋敷で、この村で、この方の隣で。リーヴェル家の娘としてではなく、アニエスとして」
「……勘当だ」
父が、絞り出すように言った。
「そんな勝手を言うなら、お前など勘当だ!」
「はい」
私は、静かに頷いた。
「この屋敷に追放された日に、もうそのつもりでおりました」
父は、口を開けたまま固まった。
ヴァルディオス様が、懐から一通の書状を取り出した。封蝋には、この国の王家の紋章が押されている。
「では、伯爵。こちらを渡しておこう」
「こ、これは……」
「この国の王に、今回のことは伝えてある。竜の国の王の番を、根拠のない呪いの噂で追放した伯爵家のことをな」
父が、震える手で書状を開いた。読み進めるうちに、その顔が蒼白になっていく。
継母が横からのぞき込み、ひっと声を上げた。
「伯爵位を、子爵に降格……ヴィントベルクの別邸と周辺の土地は、アニエスに譲渡……!?」
「家令の不正も、すでに王家の役人が調べ始めている」
ヴァルディオス様は、冷ややかに付け加えた。
「それから、ハーヴェイ侯爵家にも話は届いているはずだ。偽りの告発で姉を陥れた娘を、嫁に迎えるかどうか。……侯爵家が決めることだがな」
セドリック様の顔が、引きつった。ベアトリスが、わっと泣き出す。
けれど、その涙に駆け寄る人は、もう誰もいなかった。
リーヴェル家の馬車が去っていくのを、私は玄関の階段の上から見送った。
門の外で、村の人たちが道を空けていた。誰も何も言わなかったけれど、トビだけが、馬車の背中に向かって思いきり舌を出していた。
「……疲れたか」
隣で、ヴァルディオス様が言った。
「少しだけ」
手のひらの中で、お母様の首飾りが温かかった。
「でも、言えました。全部、自分の口で」
「ああ。見ていた」
ヴァルディオス様は、私の髪にそっと口づけを落とした。
「よく、頑張ったな」
その一言で、張りつめていたものが、ふっとほどけた。
私は彼の胸に額を預けて、少しだけ泣いた。
今度は、悲しい涙ではなかった。




