第15話 手のひら返し
手紙は、父の字で書かれていた。
『アニエス。風の噂で、お前が竜王陛下の寵愛を受けていると聞いた。父として、これほど喜ばしいことはない。過日のことは、互いに行き違いがあったのだと思う。近日中に迎えに行く。家族水入らずで、ゆっくり話をしよう』
居間の長椅子で、私はその手紙を三度読み返した。
(……行き違い)
呪いの娘と呼んで、婚約を取り上げて、雨漏りのする屋敷に追い出したことが。
(家族水入らず)
私が部屋に入るたび、笑い声が止んだあの家族と。
「燃やすか」
肩越しに手紙をのぞき込んでいたヴァルディオス様が、低い声で言った。指先に、もう小さな炎が灯っている。
「だめです」
「なぜだ」
「……一応、父の字ですから」
ヴァルディオス様はしぶしぶ炎を消した。けれど、部屋の温度は下がらなかった。
「アニエス様。差し出がましいようですが」
ゴットフリートさんが、紅茶のおかわりを注ぎながら言った。包帯はもうほとんど取れている。
「若い者を何人か王都へやって、リーヴェル伯爵家の様子を探らせておりました。お聞きになりますか」
「……はい」
ゴットフリートさんの話は、思っていた以上だった。
私が王都を出てから、リーヴェル家の帳簿は滅茶苦茶になっているらしい。父は昔から領地の管理を家令に任せきりで、その家令の不正を毎月見つけて正していたのは、ほかでもない私だった。誰にも頼まれず、誰にも気づかれずに続けていたことだ。
(……気づかれていなかったのね、本当に)
それから、領地の村々。私がこっそり薬草を届けていた家の人たちが、医者にかかるお金もなく困っているという。
ベアトリスは婚約が決まってから、ドレスや宝石を山のように買い込んでいた。その支払いが、すでに伯爵家の蓄えを食いつぶし始めている。ハーヴェイ侯爵家は、婚儀の日取りを決めるのを渋っているそうだ。
「そこへ、辺境の追放娘が竜王の番になったという噂が届いた、というわけでございます」
「……つまり」
「竜の国の後ろ盾と、財産が目当てかと」
ゴットフリートさんは、穏やかな顔のまま言い切った。
ヴァルディオス様の周りで、空気がゆらりと揺らめいた。
「来たら、追い返す」
「いいえ」
私は手紙を膝の上で折りたたんだ。
「会います」
「アニエス」
「追い出されたあの日、私は何も言えませんでした。泣いても誰も困らないと思って、ただ頭を下げて出てきたんです」
ヴァルディオス様の目を、まっすぐに見る。
「今度は、ちゃんと自分の口でお別れを言いたいんです。……そばにいて、くださいますか」
ヴァルディオス様は、しばらく黙って私を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「当然だ」
五日後の昼過ぎ。
リーヴェル伯爵家の紋章をつけた馬車が、丘の上の屋敷の門をくぐった。
村の人たちが、遠巻きに様子をうかがっている。トビとその姉の姿も見えた。
玄関前に止まった馬車から、最初に降りてきたのは父だった。続いて継母。それから、ベアトリスとセドリック様。
四人は、そろって屋敷を見上げ――そのまま、固まった。
青い瓦屋根。壁を覆っていた蔦は払われ、白い石壁が陽光に輝いている。庭の白い薔薇は、季節外れのまま咲き誇っている。噴水は黒い竜たちに壊されたあと修繕されて、前よりも大きくなっていた。玄関の扉の向こうには、王城の大広間から来たというシャンデリア。
継母の手から、扇がぽとりと落ちた。
「ここが……あの、廃屋敷……?」
ベアトリスの顔から、表情が抜け落ちていた。
私は玄関の階段を、ゆっくりと下りた。
着ているのは、若草色のドレス。ヴァルディオス様がしばらく口をきかなくなった、あのドレスだ。
「ようこそ、お父様、お義母様。ベアトリス。セドリック様」
ドレスの裾をつまんで、きちんと礼をする。
顔を上げたとき、父の目が、見たこともないほど見開かれていた。
「アニエス……! おお、会いたかったぞ!」
父が、両腕を広げて駆け寄ってきた。
十年間、一度も私を抱きしめたことのない腕だった。
その腕が私に届く前に、すっと黒い外套が割り込んだ。
「――俺の番に、気安く触れるな」
ヴァルディオス様だった。
父は彼の顔を見上げ、その金色の瞳に射すくめられて、ひっと息を呑んだ。
「り、竜王陛下でいらっしゃいますか……! これは、とんだご無礼を。わたくし、アニエスの父の、リーヴェル伯爵にございます」
「知っている」
短く言い捨てて、ヴァルディオス様は私の腰に手を回した。
父は引きつった笑顔のまま、何度も頭を下げた。継母も慌てて扇を拾い、深々と礼をする。
そのとき、私は気づいた。
ベアトリスが、ヴァルディオス様を見ていた。
頬を染め、目を潤ませ、唇をかすかに開いて。
「まあ……なんて、素敵な方……」
小さな呟きが、聞こえた。
その目を、私はよく知っていた。
お母様の首飾りを見ていたときの目。私の刺繍の手巾を見ていたときの目。セドリック様を見ていたときの目。
私のものを欲しがるときの、ベアトリスの目だった。
(……ああ、また)
胸の奥が、すっと冷えた。
けれど、王都の屋敷にいた頃のように、諦めの冷たさではなかった。
セドリック様が、私を見ていた。若草色のドレスを、整えた髪を、ヴァルディオス様の腕の中の私を。その顔に浮かんでいるのは、後悔のような、未練のような、ひどく居心地の悪い表情だった。
「……アニエス。見違えたよ」
私は、何も答えなかった。
ヴァルディオス様の腕に、そっと自分の手を重ねる。
(もう、奪わせない)
この人も。この屋敷も。この村も。ここで手に入れた、私の居場所も。
「中へどうぞ。お話は、広間で伺います」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
ゴットフリートさんが、恭しく扉を開ける。
シャンデリアの光の下へ、リーヴェル家の人々が吸い込まれていった。




