第14話 竜王の怒り
砦全体が、揺れていた。
見張りの竜が慌てて部屋を飛び出していく。開け放たれた扉の向こうから、悲鳴と怒号が聞こえてきた。
「来たぞ! 銀の竜王だ!」
「早すぎる、どうやってこの場所を――」
私は、印を握りしめていた手をゆっくりと開いた。
鉄の枷の下で、印が脈打つように熱い。
(……伝わったんだわ)
来ないで、と思っていたはずなのに。会いたいと願ったら、あの方は来てしまった。
どすどすと荒い足音が近づいてきて、ドラヴェクが部屋に飛び込んできた。その顔からは、さっきまでの余裕が消えていた。
「立て!」
鎖ごと引きずり起こされ、首筋に冷たい刃を当てられる。そのまま、砦の外へと連れ出された。
外に出た瞬間、熱風が顔を打った。
夜のはずなのに、あたりは昼間のように明るかった。
山が、燃えていた。いいえ、燃えているのではない。山を覆っていた雪と氷が、すさまじい熱で一斉に溶け、白い湯気となって立ちのぼっている。その湯気が、空の上の光を受けて赤く輝いていた。
空の上。
砦の真上に、銀の竜がいた。
月よりも大きく見えた。広げた翼の端から端まで、銀の鱗が赤熱したように光っている。金色の瞳は、溶けた鉄のように燃えていた。
砦のまわりでは、黒い竜たちが地面に這いつくばっていた。何頭かは翼を焼かれ、もう飛べないようだった。
「止まれ、竜王!」
ドラヴェクが叫んだ。私の首筋の刃に、力がこもる。
「それ以上近づけば、番の喉を裂く!」
銀の竜が、ぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりと砦の前に降り立ち、光に包まれた。
人の姿のヴァルディオス様が、そこに立っていた。
銀の髪が熱風に煽られて揺れている。黒い外套は焼け焦げ、頬には煤がついていた。長老会議の場から、そのまま飛んできたのだろう。
その表情は、怖いほど静かだった。
「……アニエス」
名前を呼ぶ声だけが、ひどく優しかった。
「怪我は」
「ありません」
「そうか」
ヴァルディオス様は、ドラヴェクに視線を移した。
それだけで、あたりの温度がさらに上がった。足元の石が、じりじりと音を立てる。
「ドラヴェク。兄の命乞いに免じて、あのときは見逃してやった」
「黙れ! ザルグレア様を氷牢に封じたのは貴様だろうが!」
「その恩を、俺の番に刃を向けることで返すか」
「動くなと言っている!」
ドラヴェクの刃が、私の首筋に食い込みかけた。
(……だめ)
このままでは、あの方は動けない。私が人質でいる限り。
――番を手中にすれば、竜王は何もできない。
(いいえ。そんなこと、させない)
私は、左手首に意識を集めた。
鉄の枷が、竜の力を封じている。けれど、さっき部屋の中で、印は確かに熱く脈打っていた。あの方の想いが、枷の下まで届いていた。
(ノエル。力を、貸して)
印が、応えた。
鉄の枷に、ぴしりとひびが入る。ひびは見る間に広がり、銀の光が隙間からあふれ出した。
「なっ――」
ドラヴェクが目を見開いた瞬間、枷が粉々に砕け散った。
銀の光の壁が、私の身体を包む。首筋の刃が、光にはじかれて宙を舞った。
「アニエス!」
ヴァルディオス様が、地を蹴った。
次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。熱いほど温かい腕だった。
ヴァルディオス様は私を片腕で抱いたまま、もう片方の手をドラヴェクに向けた。手のひらから、銀の炎がほとばしる。
ドラヴェクの身体が炎に包まれ、吹き飛ばされて、砦の石壁に叩きつけられた。黒い竜の姿に戻りかけたまま、ずるずると地面に崩れ落ちる。
まだ、息はあるようだった。
「殺しはしない」
ヴァルディオス様は、冷えきった声で言った。
「お前の処遇は、長老会に委ねる。……兄と同じ氷牢で、残りの生を数えるがいい」
砦の上空に、いくつもの羽音が響いた。
見上げると、赤い竜を先頭に、灰色、青、緑の竜が舞い降りてくるところだった。イングリットと、長老たちだ。
「従兄様! まったく、会議の途中で窓を突き破って飛び出すなんて……!」
人の姿に戻ったイングリットが駆け寄ってきて、私を見て、ほっと息を吐いた。
「……無事でしたのね」
「はい。イングリット様も」
「わ、わたくしは別に、心配なんて……」
言いかけて、イングリットは口をつぐんだ。それから、小さな声で「よかったですわ」と呟いた。
ヴェルムント様が、杖をついてゆっくりと近づいてきた。砕け散った枷の破片と、まだ銀色に光っている私の手首を、じっと見つめる。
「……竜の力を封じる黒鉄の枷を、番の力で砕いたか」
灰色の瞳に、何か深い感情がよぎった。けれど、老人はそれ以上何も言わず、黒い竜たちの捕縛を若い竜たちに命じた。
騒ぎが落ち着いた頃には、東の空が白み始めていた。
溶けた雪の湯気が、朝日を受けて金色に光っている。
ヴァルディオス様は、ずっと私を離さなかった。抱きしめた腕に、痛いくらい力がこもっている。
「……ヴァルディオス様、少し、苦しいです」
「我慢しろ」
「我慢、って」
「十年待った」
かすれた声だった。私の髪に顔を埋めたまま、彼は言った。
「十年待って、やっと見つけた。それをたった一晩で奪われかけた。……二度と離さない。何があっても」
彼の肩が、小さく震えていた。
(ああ、この人は)
竜王で、強くて、山の雪をひと晩で溶かしてしまうほどの力を持っているのに。
私を失うことが、こんなにも怖いのだ。
私は、彼の背中にそっと腕を回した。
「……離さないでください」
ヴァルディオス様の身体が、びくりと揺れた。
「アニエス……」
「捕まっている間、ずっと考えていました。私、身を引こうなんて、もう思いません。あなたを傷つけるだけだって、やっと分かったから」
顔を上げて、金色の瞳をまっすぐに見つめる。
「答えは、屋敷に帰ってから、ちゃんとお伝えします。……だから、今は、離さないで」
ヴァルディオス様は、何かを堪えるように目を閉じた。
それから、もう一度、強く私を抱きしめた。
あたりの空気が、春のように暖かくなった。
屋敷に戻ると、包帯だらけのゴットフリートさんが、玄関で私たちを出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。……ご無事で、本当に」
「ゴットフリートさん、お怪我は……!」
「竜は頑丈にできておりますから」
そう言って笑ったゴットフリートさんは、ふと表情を引き締め、一通の手紙を差し出した。
「それと、アニエス様。今朝、村を経由してこちらが届きました」
封蝋に押された紋章を見て、私は息を呑んだ。
リーヴェル伯爵家の紋章だった。




