第13話 さらわれた番
その夜、イングリットは竜の国へ発つことになった。
「長老会議に、今日のことを伝えなければなりませんわ。あの力が本当に番の印によるものなら――掟の前提が、覆るかもしれませんもの」
月明かりの庭で、イングリットは早口に言った。
「掟の、前提……?」
「詳しいことは、確かめてからお話ししますわ。期待させて違ったら、あなたが傷つきますでしょう」
そう言ってから、彼女ははっとしたように口を押さえた。
「べ、別に、あなたを気遣ったわけではありませんわよ!」
「はい」
「何を笑っていますの!」
赤い竜が北の空へ飛び立つのを見送って、私は屋敷へ戻った。
ゴットフリートさんが、温かいミルクを淹れてくれた。蜂蜜入りだった。
「陛下は、明日にはお戻りになりますよ」
「……はい」
ヴァルディオス様が戻ってきたら、答えを聞かせてほしいと言われていた。
答えなんて、本当はもう分かっている。分かっているのに、口にするのが怖かった。
(私が身を引いたら、あの方はきっと苦しむ。私がそばにいても、いつか私がいなくなったら、あの方は苦しむ)
どちらを選んでも、あの人を傷つける。
そう思うと、胸が押し潰されそうだった。
異変に気づいたのは、真夜中だった。
窓の外で、何かが光った気がして、私は目を覚ました。
次の瞬間、轟音とともに、寝室の窓硝子が砕け散った。
「きゃあっ……!」
冷たい夜風が吹き込む。割れた窓の向こうに、巨大な黒い影があった。
黒い竜だった。ヴァルディオス様よりはひと回り小さい。けれど、その目は濁った赤色に光り、牙の間から黒い煙を吐いていた。
「アニエス様!」
扉が開き、ゴットフリートさんが飛び込んできた。その背後で、若い竜たちが廊下を駆けてくる足音がする。
「お下がりください!」
ゴットフリートさんの身体が光に包まれ、老いた灰褐色の竜の姿になった。寝室の壁を突き破って、黒い竜に体当たりする。
二頭の竜がもつれ合い、庭へ転がり落ちた。白い薔薇が踏み潰され、噴水が砕ける。
「ゴットフリートさん!」
窓辺に駆け寄った私の目に、信じられない光景が映った。
黒い竜は、一頭ではなかった。夜の闇から、次々と黒い影が降りてくる。三頭、四頭、五頭。屋敷を守る若い竜たちが応戦するけれど、数が違いすぎた。
ゴットフリートさんが、二頭の黒い竜に押さえつけられる。苦しげな咆哮が響いた。
「やめて……!」
私は叫んだ。
そのとき、最初の黒い竜が人の姿に変わり、割れた窓から寝室へ踏み込んできた。
黒髪に、赤い目の男だった。頬に、深い古傷がある。
「お前が、銀の竜王の番か」
男は、薄く笑った。
「昼間の光は、見事だったぞ。おかげで、すぐに見つけられた」
(昼間……霜狼のときの)
「……あなたは、誰ですか」
「ドラヴェク。ザルグレア様の右腕だった男だ」
ザルグレア。十年前、子竜だったヴァルディオス様の翼を裂いた、兄竜の名前。
「ザルグレア様は、あの若造に王位を奪われ、北の果ての氷牢に封じられた。俺たちは、その日からずっと機会を待っていた」
ドラヴェクは、私の左手首に目を落とした。
「竜王の番は、竜王の魂の半分だ。番を手中にすれば、竜王は何もできない。……番が死ねば、竜王は狂う」
ぞっとするほど、楽しそうな声だった。
「どちらに転んでも、俺たちの勝ちというわけだ」
逃げようとした。けれど、ドラヴェクの手が伸びるほうが早かった。手首をつかまれ、そのまま窓の外へ引きずり出される。
「アニエス様ぁっ!」
ゴットフリートさんの叫び声が、遠ざかっていった。
黒い竜の爪に掴まれたまま、私は夜空を運ばれていった。
連れてこられたのは、北の山脈の奥深くにある、崩れかけた古い砦だった。
石の床に投げ出され、両手首に冷たい鎖をかけられる。左手首の印の上に、黒い鉄の枷がはめられた。
「その枷は、竜の力を封じる。昼間のような芸当は、もうできんぞ」
ドラヴェクは笑い、見張りを残して出ていった。
松明の灯りだけが揺れる、冷たい石の部屋。
私は膝を抱えて、壁にもたれた。
(……私のせいだ)
霜狼の群れから村を守ったあの光が、こんなことを招いた。ゴットフリートさんは、無事だろうか。屋敷の若い竜たちは。
そして、ヴァルディオス様は。
――番を手中にすれば、竜王は何もできない。
ドラヴェクの言葉が、頭の中で繰り返される。
(来ないで)
そう思った。私のせいで、あの方が罠にかかるくらいなら。
身を引こうとしたのも、同じ理由だった。私がいるせいで、あの方が王位を失うくらいなら。私が先に死んで、あの方を狂わせるくらいなら。
そうやって、ずっと、あの方のためだと思ってきた。
(……でも、本当にそう?)
鉄の枷の下で、印がかすかに疼いた。
十年前、雪の中の子竜は、私に「来るな」とは言わなかった。威嚇して、睨んで、それでも最後には私の外套にくるまれて眠った。
ヴァルディオス様は、十年かけて私を迎えに来てくれた。三日三晩、寝ずに飛んで。
それなのに私は、まだ一度も、自分の気持ちを口にしていない。
怖がって、身を引こうとして、あの方を傷つけただけだ。
「……ばかね、私」
ぽつりと、声が漏れた。
私が欲しいもの。この人なら奪わないと、信じたかったもの。
それは、シャンデリアでも、ドレスでも、温泉でもなかった。
枷の上から、印をぎゅっと握りしめる。力は封じられていても、心までは封じられない。
(ノエル)
(会いたい)
(あなたと、生きていきたい。たとえ五十年しかなくても、その五十年を、全部あなたと)
声には出さず、ただ、祈るように想った。
――そのとき。
石の壁が、かすかに温かくなった。
見張りの竜が、ぎょっとしたように顔を上げる。
砦の外で、ごう、と低いうなりが聞こえた。窓のない部屋なのに、空が赤く染まっていくのが分かった。
山を覆っていた雪が、溶け落ちる音がした。




