第12話 印が光る日
ヴァルディオス様が発って二日目の朝。
私は、いつも以上に忙しく働いていた。薬草畑の手入れ、乾燥させた薬草の仕分け、村の人たちに頼まれていた咳止めの調合。手を止めると、考えてしまうから。
「少しは休みなさいな。見ているこちらが疲れますわ」
石垣の上から、イングリットが呆れたように言った。
「大丈夫です。村へ薬を届けに行ってきますね」
「……わたくしも行きますわ」
「お一人でお屋敷にいらしても、いいんですよ?」
「見極めると言いましたでしょう!」
村への道を並んで歩きながら、イングリットはしばらく黙っていた。それから、ふいに口を開いた。
「どうして、人間はあんなに必死に他人を助けますの?」
「え?」
「トビとかいう子どもの姉のことも、村の老人の膝のことも。あなたに何の得もありませんでしょう」
私は少し考えた。
「……誰かが助けてくれたら、嬉しいからでしょうか」
「嬉しい?」
「十年前、私はひとりぼっちでした。そんなとき、怪我をした子竜を見つけて。助けたのは私のはずなのに、あの子が膝の上で眠ってくれるだけで、私のほうが救われていたんです」
イングリットは、何も言わなかった。ただ、その金色の瞳が、少しだけ揺れたような気がした。
村の入り口に差しかかったときだった。
カン、カン、カン、と、広場の鐘が激しく打ち鳴らされた。
「霜狼だ! 霜狼が山から下りてきた!」
叫び声と悲鳴が、一斉に上がる。
村の北側の森から、白い影がいくつも飛び出してきた。狼だ。けれど、普通の狼よりずっと大きい。氷のような青白い毛並みに、赤く光る目。冬の飢えで山から下りてきた魔獣の群れだった。
「家に入って! 子どもたちを中へ!」
大人たちが子どもを抱えて走る。けれど、霜狼の足は速い。
そのとき、私は見てしまった。広場の真ん中で、転んで動けなくなっている小さな背中を。
「トビ!」
考えるより先に、身体が走り出していた。
「お待ちなさい、人間!」
背後でイングリットの叫び声がした。次の瞬間、赤い光が弾けて、真紅の竜が空に舞い上がる。竜の炎が、先頭の霜狼たちを薙ぎ払った。
けれど、群れは多すぎた。十頭、二十頭。炎を避けた狼たちが、広場へなだれ込んでくる。
私はトビに覆いかぶさった。
「アニエス様……!」
「大丈夫。大丈夫だから、じっとしていて」
顔を上げると、群れの奥から、ひときわ大きな霜狼が姿を現した。馬ほどもある巨体。群れの長だ。
赤い目が、私を捉えた。
(……だめ。動けない)
足がすくんだ。腕の中で、トビが震えている。イングリットは、別の霜狼たちに阻まれて、こちらへ来られない。
巨大な霜狼が、地面を蹴った。
氷のような牙が、目の前に迫る。
(ノエル――)
心の中で、その名前を呼んだ瞬間だった。
左手首の印が、燃えるように熱くなった。
銀の光が、弾けた。
私を中心に、まばゆい光の輪が広がる。それは鱗のような形をした、銀色の壁だった。飛びかかってきた霜狼の長が、光の壁にはじき返されて地面に転がる。
そして――私の喉から、私のものではない声がほとばしった。
竜の咆哮。
空気がびりびりと震え、地面が揺れた。広場の霜狼たちが、一頭残らず耳を伏せ、尾を巻いて身を縮める。
霜狼の長が、怯えたように後ずさった。そして、甲高く一声鳴くと、群れを率いて森の奥へ逃げ去っていった。
しん、と静まり返る広場。
銀の光が、ゆっくりと薄れていく。
「……アニエス、様……?」
腕の中のトビが、呆然と私を見上げていた。
私は自分の左手首を見た。印が、まだかすかに銀色に光っている。
(今の、は……)
足から力が抜けて、私はその場に座り込んだ。
ばさり、と羽音がして、イングリットが人の姿で駆け寄ってきた。
「あなた……今のは、何ですの」
「分かりません……ただ、ヴァルディオス様のことを考えたら、印が熱くなって」
イングリットは、私の手首をつかんだ。銀の印を、食い入るように見つめる。
「番の印が……竜の力を、分け与えている……」
「え?」
「古い書物で、読んだことがありますの。真の番は、竜と魂を分け合う。力も――」
イングリットはそこで言葉を切り、唇を噛んだ。
「……いいえ。確かめないと、分かりませんわ」
彼女は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「立てますの?」
「……はい、なんとか」
手を取って立ち上がると、イングリットはふいと顔を背けた。
「……さっきは、勇敢でしたわ。少しだけ」
ぶっきらぼうな声だった。
私が目を瞬かせると、彼女の耳がほんのり赤くなった。
(やっぱり、ヴァルディオス様に似ていらっしゃる)
村の人たちが、恐る恐る家から出てきた。トビの姉が駆け寄ってきて、弟を抱きしめて泣き出す。
「お嬢様が、竜みたいに吠えたんだ」
「霜狼が、みんな逃げていった」
「丘の上のお屋敷の、守り神様だ……」
ざわめきが広がっていく。
私は、まだ温かい手首の印を、そっと右手で包んだ。
(ヴァルディオス様。今の、伝わりましたか)
遠い北の空の下で、あの人が何を感じたのか、私には分からなかった。
そのとき、村の外れの森の中。
黒い鱗に覆われた目がひとつ、木々の隙間から、銀の光の消えた広場をじっと見つめていた。




