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たくさん喋る田草くんは、遠井さんの沈黙すらも愛おしい  作者: 柊原 ゆず


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第七話 破壊された平穏


 中学校の文学部には、静香と志弦という二人の新入部員が足を踏み入れるまで、絵に描いたような確固たる『平穏』が存在していた。

 部員は、三年生である部長の渡辺 文也(わたなべ ふみや)と、同じく三年生で副部長の古崎 穂香(ふるさき ほのか)の二人だけ。

 図書室のさらに奥、特別棟の片隅に追いやられた埃っぽい部室は、他の生徒からは見向きもされない吹き溜まりのような場所だった。しかし、文也と穂香にとって、そこは誰の目も気にすることなく過ごせる、世界で一番大切で、誰にも邪魔されない秘密の『聖域』だった。

 なぜなら、この二人は密かに恋仲にあったからだ。


「渡辺くん、先週貸してくれたこの本、すごく面白かった。特に、主人公が最後に手紙を読むシーン……私、思わず泣いちゃった」

「本当?よかった。古崎さんならきっとそのシーン、気に入ってくれると思ってたんだ」


 放課後の部室。西日が差し込み、空気中を漂う細かい埃がキラキラと光の筋を作っている。

 パイプ椅子を少しだけ向かい合わせに置き、二人は照れくさそうに笑い合った。手と手が触れ合うような距離ではない。ただ、お互いにお勧めの小説を交換し合い、その感想をぽつりぽつりと語り合うだけ。

 言葉の端々に、相手への思いやりと深い愛情が滲み出ている。


「じゃあ、次は私のお勧めを貸すね。少し古いミステリーなんだけど、渡辺くん、こういうのも好きかなって」

「ありがとう。古崎さんが選んでくれた本なら、なんだって読むよ」

「ふふっ、大げさだなあ」


 本を差し出す時、ほんの少しだけ指先が触れ合う。

 それだけで、二人の頬は微かに朱に染まり、どちらからともなく目を伏せる。そして、再びそっと視線を交わしては、ふんわりと柔らかく微笑み合うのだ。

 そこに派手な愛情表現や、ドラマチックな展開はない。

 ただ、同じ空間でページをめくる小さな音を共有し、同じ物語を読んで感情を分かち合う。互いの存在が隣にあることだけで心が満たされるような、穏やかで優しく、ぽかぽかとした陽だまりのような愛を、二人はこの狭い部室でひっそりと育んでいた。

 卒業まで、この優しく静かな時間がずっと続けばいい。

 文也も穂香も、心の底からそう願っていた。

 ――しかし。

 彼らのささやかな聖域の扉は、四月のある日、二人の一年生によって無惨にも蹴り破られることとなった。


「それでね静香ちゃん!さっきの授業で習った歴史の年号なんだけど、ただ暗記するんじゃなくて、その裏にあった人間ドラマを考えるとすごく面白いよね!例えばこの武将の行動って、もしかして好きな人を守るためだったんじゃないかな!?僕だったら絶対そうするよ、静香ちゃんのためなら国だって滅ぼしちゃうもんね!」

「…………」


 放課後の部室に、息継ぎのタイミングすら無いほどの、志弦の猛烈な弾幕トークが鼓膜を打つように鳴り響いていた。

 かつて本をめくる微かな音しか存在しなかった空間は、今や一人の少年が放つ常軌を逸した熱量の言葉によって完全に支配されている。

 対する静香は、隣でどれだけ騒音が喚き散らされようと、完全に音をシャットアウトしているかのように微動だにしない。サファイアのように澄んだ冷たい瞳は、分厚く小難しい外国文学の活字だけを追い続け、淡々とページをめくっている。

 その光景を。

 部屋の一番隅、かつて二人の特等席だった窓際から遠く離れた長机の端っこで、文也と穂香は肩を寄せ合いながら、青ざめた顔で見つめていた。


(ね、ねえ渡辺くん……今日もうるさいね……)

(うん……というか、田草くんの言ってること、愛が重すぎて怖いよ……国滅ぼすって……)

(遠井さんも遠井さんで、あれだけ顔近付けられてて、なんで普通に本読めるの……?)

(わ、わからない……あの二人、僕たちが生きてる次元とは違うルールで動いてる気がする……)


 二人は、志弦に聞こえないように、震える声でひそひそと囁き合う。

 元来、地味でおとなしく、争い事を好まない平和主義の彼らにとって、志弦のこの異常なテンションと、静香に向けるどす黒い執着は、ただの『恐怖』でしかなかった。

 何より恐ろしいのは、その『距離感』だ。

 文也と穂香が『手が触れ合うだけで恥ずかしい』と初々しい距離を保っているのに対し、志弦は静香の真横に隙間なくパイプ椅子をくっつけ、彼女の白磁のような頬に自分の鼻先が触れそうなほど顔を近づけて、下から覗き込むようにして喋り続けているのだ。

 静香が時折、鬱陶しそうに「……あつい」や「……はなれて」と単語をこぼすと、志弦は一瞬だけシュンと犬のように肩を落とし、言われた通り数センチだけ距離を離す。しかし、五分もすれば磁石に吸い寄せられるように、再び元の密着距離に戻っているのだ。

 その異様で歪なサイクルが、狭い部室の中で延々と繰り返されていた。


(このままじゃ、僕たちの平穏な読書タイムが……!)

(渡辺くん、部長でしょ?ちゃんと注意して!)


 穂香に背中をつつかれ、文也はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

 そうだ、ここは文学部だ。静かに本を読むための神聖な場所なのだ。おしゃべりなら他所でやってくれと言わなければならない。最高学年として、そして何より、愛する彼女の前で情けない姿は見せられない部長として。

 文也は勇気を振り絞り、震える足に力を込めてパイプ椅子から立ち上がった。


「あ、あのさ……田草くん、遠井さん」


 勇気を出して、文也が声をかけた瞬間。

 それまで機関銃のように猛烈な勢いで喋り続けていた志弦の動きが、まるであの世から停止ボタンでも押されたかのように、ピタリと止まった。

 部室に一瞬の静寂が落ちる。

 そして志弦は、身体の向きはそのままに、ゆっくりと、ぎこちなく首だけを回して文也の方を向いた。


「はい?何ですか、部長」


 志弦は口元に、人当たりの良さそうな、いかにも爽やかな後輩らしい笑みを浮かべていた。

 しかし。その少し癖のある茶髪の下から覗く、アメジストのように深く澄んだ紫色の瞳には――微塵も、一筋の光すらも宿っていなかった。

『静香ちゃんとの時間を、邪魔するな』

 声に出さずとも、その背の高い見目麗しい美少年から放たれる、底知れぬ圧倒的な威圧感と、肌を刺すような冷気。それは純粋な殺気と呼んでも差し支えないほど重く、文也の心臓を物理的に鷲掴みにしたかのような錯覚を起こさせた。


「い、いや……その、ここは文学部だから、もう少し……静かに、本を読んだ方が、いいんじゃないかなぁ……なんて……」


 蛇に睨まれた蛙のように、文也の声は言葉を紡ぐごとに尻すぼみに小さくなっていく。

 すると、志弦は心底不思議そうな、まるで理解力のない子供を見るような顔をして首を傾げた。


「静かに?でも部長、見てくださいよ。静香ちゃんは今、すっごく集中して本を読んでますよ。僕の声なんて、全然気にしてないくらい」


 志弦は静香の美しい横顔を、甘く、愛おしげに見やり、そして再び文也へと冷たい視線を戻す。


「むしろ、部長が今出した大きな声の方が、静香ちゃんの邪魔になっちゃってるんじゃないですか?」

「ヒッ……」


 ニコリと美しく微笑む志弦の言葉。

 そこには『僕がどれだけ喋ろうが静香ちゃんが許してるんだから問題ない。部外者が口を挟んで僕の静香ちゃんに迷惑をかけるな』という、自己中心的で理不尽すぎる論理が内包されていた。その圧倒的な狂気に当てられ、文也は情けなく一歩後ずさる。

 確かに、志弦がどれだけ隣で喚こうと、静香は全く反応していなかった。

 だが、文也が声を出し、志弦と会話を始めたその直後。静香はわずかに、本当にわずかに美しい眉を顰め、パラリと本から顔を上げたのだ。


「……うるさい」


 静香の口からこぼれた、絶対零度の冷たい一言。

 それは間違いなく『渡辺が注意しにきたことで、隣の熱源(志弦)がさらに面倒な動きを見せている』という事態そのものに対する、鬱陶しさから出た言葉だった。

 しかし、志弦の『超解釈』は、ここでも遺憾なく発揮された。


「ほらぁ、部長!部長が急に大きな声を出すから、静香ちゃんが怒っちゃったじゃないですか!集中が切れちゃったじゃないですか!もう、次からは本当に気を付けてくださいね!」

「えええええっ……!?僕のせい!?」


 静香の『うるさい』は部長に向けられたものだという完全な濡れ衣。

 あまりにも理不尽極まりない展開と、志弦から浴びせられる『お前が悪い』という無言のプレッシャーに耐えきれず、文也はついに涙目でパイプ椅子へと逃げ帰った。


「渡辺くん、可哀想に……」


 穂香がそっと文也の震える背中を撫でて慰める。

 かくして、地味で善良な先輩二人の『平穏を取り戻す戦い』は、新入生の圧倒的な狂気と無関心の前に、連戦連敗を喫することとなるのだった。


つづく

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