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たくさん喋る田草くんは、遠井さんの沈黙すらも愛おしい  作者: 柊原 ゆず


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第六話 重すぎるデータ


 小学校の卒業式を終え、真新しい少し大きめの制服に身を包み、同じ地元の公立中学校へ進学しても、二人の関係が劇的に変わることはなかった。

 相変わらず静香は、艶やかな黒髪のショートボブを揺らしながら黙々と活字の海に潜り続け、志弦はその横で、紫色の瞳を爛々と輝かせながら絶え間なく言葉を紡ぎ続ける。

 ただ一つ、中学生になった彼らの環境に明確な変化をもたらしたのは、その中学校に古くから存在する、ある厄介な校則だった。

 『全校生徒、必ず何らかの部活動に所属すること』

 他者との無用な関わりを極力避け、平穏な読書の時間だけを守って生きていきたい静香にとって、これほど煩わしいルールはない。体育会系など論外だし、文化系であっても集団行動を強いられるのは苦痛でしかない。

 当然、彼女は第一希望として『帰宅部』という選択肢を探したが、残念ながらこの学校にそんな甘えは許されていなかった。

 数日間の思案の末、静香は仕方なしに一番部員数が少なく、かつ最も静かで放任主義だという噂の『文学部』の入部届に、流れるような美しい字で名前を書いた。

 そしてもちろん。彼女が提出箱に入部届を入れたわずか一秒後、後ろから伸びてきた志弦の手によって、全く同じ部活名が書かれた紙が重なるように投函されたのは言うまでもない。






 放課後。図書室のさらに奥、特別棟の片隅にある文学部の部室。

 普段から人が寄り付かないその部屋は、古い紙の匂いと、微かな埃の匂いが混ざり合った、独特の空気が漂っていた。長机と不揃いなパイプ椅子がいくつか並んでいるだけの殺風景な空間。部員は静香と志弦以外に、先輩である部長と副部長しかいない。静香にとっては『人の少ない静かな場所』というだけで合格点だった。

 パイプ椅子に腰を下ろし、さっそく持参した分厚いハードカバーを開く静香。

 すると、いつものように真横の椅子に陣取った志弦が、机にガタッと身を乗り出してきた。


「文学部かあ!ねえねえ、静香ちゃんは本を読んだりするだけじゃなくて、自分で書いたりもするのかな?」


 少し癖のある茶髪が揺れ、長い睫毛に縁取られたアメジストのような瞳が、期待に張り裂けそうなほどキラキラと輝いている。


「もし書くなら、絶対読みたいなあ!だってさ、文章にするってことは、静香ちゃんの頭の中にある世界を、文字にして外に出すってことだよね?つまり、静香ちゃんの頭の中を少しだけ覗き込めるってことだもんね!」


 志弦の口調はいつも通り明るく、一見すると無邪気な少年のようだ。しかし、その言葉の根底にあるのは、純粋な好奇心などではない。


「僕、静香ちゃんの頭の中がどうなってるのか知りたいって、ずーっとずーっと思ってたんだあ。普段何を考えてるのか、どんな言葉を知ってるのか、どんな世界を見てるのか……ぜんぶ、ぜんぶ知りたい!ね、静香ちゃん。何かお話、書いてみようよ!」


 それは、大好きな静香の思考、感情、内面の世界――その全てを暴き、解剖し、自分の手元に置いて隅々まで鑑賞したいという、異常で粘着質な独占欲の表れだった。

 物理的な距離だけでは飽き足らず、ついには彼女の『脳内』にまで侵入しようと企てているのだ。

 熱を帯びた吐息がかかりそうなほど机に身を乗り出し、熱烈なアピールを繰り返す志弦。

 しかし、静香の視線は活字から一ミリも動くことはなかった。彼女の目的は、あくまで『静かに本を読む場所』の確保という極めて合理的なものであり、自分が文字を書くという労力を割くつもりなど毛頭ない。返事をする価値すらない、というように、彼女は冷たい無言で完全な拒絶を示した。

 普通なら、ここで心が折れるか、怒って離れていくところだろう。

 だが。


「……そっか。静香ちゃんは自分が書くよりも、読む方が好きなんだね」


 完全に無視されても、志弦は全くめげなかった。

 それどころか、彼の歪に発達した脳は『無視された』という事実を、『静香ちゃんは僕の言葉に内心で頷き、読書に専念したいという意思表示をしてくれた』という都合の良い肯定へと瞬時に変換していた。

 志弦は机から身を引き、何かに閃いたように、ポンッと軽く手を打った。


「あっ、じゃあ僕が書こうか!?」


 静香が本を読むのが好きなら、僕が彼女のための本を書けばいい。その完璧な論理に辿り着いた志弦の顔に、底抜けに明るい、けれどどこか狂気を孕んだ満面の笑みが浮かんだ。


「うん、それがいい!僕から静香ちゃんへの想いを、たくさんたくさん書いてくるね!!静香ちゃんがどんなに美しくて、僕がどれだけ静香ちゃんのことを愛してるか、文字にすればもっと深く伝わるかもしれないもんね!」


 それは、一般的に『ラブレター』と呼ばれるものとは次元が違う。

 幼い頃から蓄積された、どす黒く重い執着と観察記録を、文字という形にして彼女に浴びせかけようという宣言だった。


「待っててね、静香ちゃん。静香ちゃんが読むのをやめられなくなるくらい、最高のものを書いてくるから。……楽しみにしててね!」


 薄暗い埃っぽい部室の中で、志弦の紫色の瞳だけが、異常なほどの熱を帯びてギラギラと発光しているように見えた。

 静香は相変わらずその狂気の宣言をBGMとして聞き流し、ただ淡々とページをめくり続けている。

 彼女はまだ知らない。この静かな文学部が、間もなく志弦の書き殴る『文字の暴力』によって埋め尽くされることになるということを。






 その日の夜。

 自宅に帰ってきた志弦は、カバンを放り投げるなり、いつものルーティンを消化し始めた。

 まずはココア味のプロテインを一気飲みし、部屋の床で腕立て伏せと腹筋を100回ずつ繰り返す。まだ休憩を挟みながらだが、静香を守るための肉体作りは、中学生になった今でも一日たりとも欠かしたことはない。悲しいかな、相変わらず筋肉が爆発的に付くことはなく、ただ引き締まった細身の体を維持しているだけだったが。

 汗を拭い、風呂に入った志弦は、ついに学習机の前に座った。

 机の上には、父親から調べ物用にと借りている、少し古い型のノートパソコンが置かれている。電源を入れ、文章作成アプリを立ち上げる。画面に表示された、真っ白で無機質なキャンバス。


「……よし」


 志弦はキーボードの上に両手を置き、小さく深呼吸をした。

 静香ちゃんへの想いを、僕の愛を、文字にする。

 カタカタ、と不慣れながらも力強いタイピング音が、静かな自室に響き始めた。


『静香ちゃんの髪は、夜の闇を切り取ったみたいに綺麗で――』

「……違う」


 一行目を打ち終えた直後、志弦は即座にバックスペースキーを連打した。文字が次々と消去され、再び画面は真っ白に戻る。


「夜の闇なんかじゃない。もっと艶があって、滑らかで……触れると指の間から零れ落ちていくような、そういう特別な美しさなんだ。夜の闇なんて陳腐な言葉じゃ、あの美しさは表現しきれない」


 志弦は眉間に皺を寄せ、虚空を睨みつけた。

 彼の脳裏には、数時間前に部室で隣に座っていた静香の姿が、毛穴の一つ一つまで鮮明に焼き付いている。

 光の加減で青みがかって見える濡羽色の髪。瞬きをするたびに、白磁のような肌にわずかな影を落とす長い睫毛。本をめくる時の、あの冷たくて細い指先の動き。


「静香ちゃんの瞳……サファイアよりもずっと綺麗で、透き通っていて。でも、僕のことは一回も映してくれない。……それがたまらなく愛おしいんだ」


 独り言を呟きながら、志弦の指が再びキーボードの上を踊り始める。

 だが、すぐにまた手が止まる。


「だめだ。言葉が足りない。僕の静香ちゃんへの愛は、こんな薄っぺらい単語の羅列じゃ伝わらない!もっと……もっと正確に、彼女の尊さを、僕の狂いそうなほどの感情を表現できる言葉があるはずだ……ッ!」


 カタカタカタカタッ!ターンッ!!

 ダダダダダダッ!

 打っては消し、打っては消す。

 言葉の辞書を頭の中でフル回転させながら、志弦は『静香を表現するための完璧な文字』を探し求めて暗闇を彷徨い続けた。

 少しでも表現がずれていれば許せない。彼女を形容する言葉に、一ミリの妥協も妥当性も欠いてはならないのだ。


「ああ……だめだ、どう書けばいい……。静香ちゃんが振り向いた時の、あの甘い石鹸と古本が混ざったような匂い。あれを嗅ぐだけで僕は生きていけるのに、どうして文字には匂いがつかないんだ……!」


 時には頭を抱え、時には机に突っ伏し、志弦は「ああでもない、こうでもない」と呻き声を上げた。

 気が付けば、日付が変わろうとしていた。

 部屋の明かりもつけず、ディスプレイの青白い光だけが、志弦の顔を不気味に照らし出している。

 そのアメジストのような紫色の瞳は、疲労を感じるどころか、時間が経つほどに異常な熱を帯びて発光しているかのようだった。


「書くんだ……静香ちゃんのために。僕の全てを、文字にして……」


 静香への愛と、病的な観察記録、そして重すぎる執着。

 それらを織り交ぜた、一人の少年による狂気の『文学』が、深夜の部屋でひっそりと、しかし確実に産声を上げようとしていた。






 そして、翌日の放課後。

 いつものように部室で本を開いていた静香は、ドアを開けて入ってきた志弦の顔を見た瞬間、珍しくピクッと微かに眉を動かした。

 志弦の顔面は、言葉を失うほど悲惨な有様だったのだ。

 見目麗しいはずの整った顔立ちには、目の下にまるで殴られたかのように濃く深いクマがくっきりと刻まれている。たった一晩で頬はげっそりとこけ、肌の血色も完全に失われ、まるで土の中から這い出てきた死者のようだった。

 しかし、その落ち窪んだ紫色の目だけは異常な光をギラギラと放ち、口元は不気味なほどに引き攣った笑みを浮かべている。


「静香ちゃん、ごめん……!」


 志弦は机に両手をつき、ぜえぜえと荒い息を吐きながら言った。


「静香ちゃんへの想いを……図鑑みたいに、たくさん、たくさん書いたんだけど……っ。それでも全然言葉が足りなくて、気がついたら朝になっちゃってたんだ!!」


 彼の指先は、キーボードを叩きすぎたせいで赤く腫れ上がり、かすかに震えている。


「本当は、全部紙に印刷して、分厚い本にして渡したかったんだけど……。一応プリントアウトしようとしたら、用紙が足りない上に、重くなりすぎて静香ちゃんの細い腕じゃ持てなくなっちゃうことがわかったから……っ。だから、データだけ、渡すね!!」


 そう言って志弦が震える手で差し出したのは、銀色に光る小さなUSBメモリだった。

 その数センチほどの小さなプラスチックの塊に、一晩中タイピングし続けた志弦の狂気的で粘着質な『想い』が、致死量を超えてパンパンに詰まっているのだ。

 静香は、目の前に差し出されたその銀色の塊を一瞥し。


「いらない」


 即座に、一切の感情を交えずにそう言い放った。普段なら「邪魔」の一言で済ませるか、言葉を発することすら面倒くさがって完全無視を決め込む彼女だったが、そのUSBから滲み出るあまりの怨念と気持ち悪さに、たまらず本能で言葉を滑らせてしまったのだ。


「えっ!?!?」


 志弦は、雷に打たれたように完全に硬直した。

 まさか一文字も読まれることなく受け取りを拒否されるとは思っていなかったのか、絶望に染まった顔で、静香の冷たい横顔と、自分の手にあるUSBメモリを交互に見つめる。


「そ、そんなあ……!僕の、血と汗と涙の徹夜の結晶が……!!」


 志弦は床に膝をつき、大袈裟に肩を落として泣きそうな声で嘆いた。

 しかし、彼の歪な思考回路は、数秒の再起動を経て、すぐに驚異的な自己完結を果たした。彼はパッと顔を上げると、再びいつもの引き攣った、しかし前向きな笑顔に戻ったのだ。


「そっか、そうだよね!まだ静香ちゃんには早かったかな!いきなりたくさんの愛を受け止めるには、心の準備が必要だもんね!」


 彼女の『いらない——気持ち悪いから視界から消してくれ——』という明確な拒絶を、『まだ心の準備ができていないだけ』と超解釈する。


「じゃあ、このデータは僕が責任を持って大切に保管しておくね!!いつか静香ちゃんが読みたくなる日まで、ずーっと、ずーっと持ってるからね!!」


 志弦は決して諦めなかった。

 自分の狂気と愛が限界まで圧縮されたUSBメモリを、まるでこの世で最も尊い宝石でも扱うかのように両手で大切に包み込む。

 そして、それを制服の胸ポケット――自分の心臓に一番近い場所――の奥深くに、大事に大事にしまい込むのだった。


つづく

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