第五話 言葉の防壁
季節が幾度か巡り、二人が小学校の高学年と呼ばれる年齢になると、教室の空気には少しずつ、しかし確実な変化が生じ始めていた。
子供たちの体と心に、明確な『男女の差』が現れ始める時期である。無邪気にグラウンドを駆け回っていた同級生たちが、次第に互いの視線を意識し、グループの垣根や距離感に敏感になっていく中、静香の存在感はひときわ異彩を放っていた。
静香は、相変わらず誰とも群れることはなかった。無口で、周囲に対して一切の興味を示さないその態度は、同年代の子供たちからすれば『冷たい』と敬遠される理由になり得る。しかし、その人を寄せ付けない氷のような雰囲気は、かえって彼女の神秘性を際立たせ、今や彼女は誰の目から見ても息を呑むような美しい少女へと成長を遂げつつあった。
かつての、折れそうなほど細く華奢だった身体は、少女特有のわずかに柔らかな丸みを帯び始めている。艶やかな濡羽色のショートボブが、窓から差し込む光を受けて滑らかな天使の輪を描いていた。色素の薄い、サファイアのように澄んだ青い瞳は、感情を一切映すことなく、ただ静かに活字の海を漂っている。その涼やかな眼差しの下には、小さな桃色の唇が愛らしく、そしてどこか艶やかに映えていた。陶器のように滑らかで一点の染みもない白磁の肌と相まって、ただ黙って本に視線を落としているだけで、誰もが思わず見惚れてしまう。それはまるで、一枚の精巧な絵画のような美しさだった。
さらに彼女を特別な存在にしていたのは、その圧倒的な知性だ。休み時間も放課後も、常に小難しい活字の世界に没頭し、周囲の喧騒をシャットアウトして本を読み耽っているだけのことはある。日々の小テストから期末の学力テストに至るまで、彼女の成績は常に学年トップクラスを維持していた。
誰もが安易に踏み込めない冷徹さと、誰もが認める圧倒的な美貌、そして非の打ち所のない頭脳を併せ持つ才女。
それが、高学年になった遠井静香という少女の完成されつつある姿だった。
「あ、あのさ……遠井さん。これ、委員会のプリントなんだけど……」
「遠井さん、次の移動教室、一緒に行かない?」
美しく、そして頭が良い。
そんな彼女に興味を惹かれ、近づこうとする同級生――特に男子たち――が、少しずつ増え始めたのだ。
しかし、静香にとってそれは、愛する読書の時間を無惨に削られるだけの『煩わしいノイズ』でしかなかった。
彼女が短く「邪魔」と冷淡に言い放とうと息を吸い込んだ瞬間、あるいは本から目を一ミリも逸らさずに完全な無視を決め込もうとした、その刹那。
必ず彼女とノイズの間に割って入る、長身の影があった。
「あれあれ~?プリントなら僕が静香ちゃんの分もまとめて出しておくよ!」
どこからともなく――文字通り、直前まで教室の反対側で別のグループにいたはずなのに、瞬間移動でもしたかのような異常な速度で――志弦が現れる。
彼は声をかけてきた男子生徒の肩に馴れ馴れしく腕を回し、有無を言わさずその手からプリントをひったくった。
「それより君、そのプリントの裏側見た?再生紙の繊維の向きが横になってるよね。これってどうしてだと思う?僕はね、裁断機の刃の入り方が関係してると思うんだけど、君はどう思う?」
「あ、移動教室!一緒に行こうよ!階段の段数を数えながら行くのって楽しいよね!なんで一段の高さって決まってるのかな?人間の歩幅の平均値から計算されてるのかなぁ!?」
志弦である。
静香に声をかけようとする不届き者がいれば、志弦はどんな状況であっても必ず現れた。そして、息継ぎのタイミングすら全く読めない猛烈な早口でまくしたて、相手が静香に発しようとしていた言葉を、文字通り音の暴力で完全に圧殺してしまうのだ。
「え、あ、いや……俺は遠井さんに……」
どうにか話を静香に戻そうと口を開く男子生徒。しかし、志弦はそれを許さない。
「ねえねえ、答えてよ!プリントの繊維の向きと、階段の歩幅の平均値!この全く関係ない二つの事象に隠された共通の法則について、君の意見を聞きたいな!え、わかんない?もしかして君、僕とお話しするの嫌なの?そんなことないよね?ねぇ!」
志弦は、わざと脈絡のない二つの話題を強引に結びつけ、相手の思考をショートさせる。対話する気など最初からないのだ。
逃げようとする男子生徒の顔を覗き込むように、志弦はぐいっと距離を詰める。鼻先が触れ合いそうなほどの、同級生に対するものとしては異常すぎる物理的な近さ。
目をキラキラと輝かせ、一見すると無邪気な笑顔。しかし、その紫色に輝く瞳の奥は氷のように冷たく、微塵も笑っていなかった。
それはコミュニケーションなどではない。志弦による『話術』という名の弾幕であり、静香を守るための絶対的な防壁だった。
静香に近づこうとした者は皆、この終わりなき質問攻めと、常軌を逸した高いテンション、そして肌が粟立つような粘着質な威圧感に完全に気圧される。最初は困惑していた彼らも数分後には青ざめ、最後には「ご、ごめん用事思い出した!」と逃げ出すように去っていくのだった。
『遠井に声をかけると、必ずあのヤバい奴(田草)が飛んできて絡まれる』
『あいつ、遠井の周り数メートル以内に入っただけで感知してくるぞ……』
そんな恐ろしい噂が瞬く間に学年に広まった。
結果として、静香に近づこうとする勇者は、誰一人としていなくなったのである。
「ふふっ。逃げていっちゃった。静香ちゃん、これでゆっくり本が読めるね」
邪魔者たちを完全に排除し終えると、志弦は満足げにとろけるような笑みを浮かべ、ごく自然な動作で静香の隣の席に腰を下ろした。『僕が彼女を守らなきゃ』という、強烈で歪んだ使命感。その目的を完璧に達成したことへの至福感で、彼の胸の奥は甘く痺れるように満たされていた。
彼女の美しい沈黙を脅かすノイズを消し去り、静香が煩わしい思いをせずに済む完璧な世界を作れるのは、この世界で僕だけなのだと。
隣で嵐が吹き荒れようと、静香は相変わらず志弦を完全に無視し、小学生が読むにはあまりにも分厚く小難しい哲学書に静かな視線を落としている。しかし、志弦はその肩が触れ合うほど近くから本のタイトルを覗き込み、彼女が読んでいる難解な内容を、完全に理解して楽しむことができた。
「あ、その本、僕も昨日読んだよ!『テセウスの船』のパラドックスのところ、すごく面白かったよね!部品が全部入れ替わっても同じ船だと言えるのかっていう問題!ねえ、静香ちゃんはあの結論、どう思った?僕はね、静香ちゃんの身体を構成する臓器が全て入れ替わったとしても、静香ちゃんだと僕が思えば静香ちゃんだと思うんだ!だって僕にとっての静香ちゃんは物質的な構成要素じゃなくて静香ちゃんという絶対的な概念そのものだからね、たとえ中身が全部別のものになっても僕が『これが静香ちゃんだ』って愛し続ければそれはもう紛れもなく僕の静香ちゃんだし、僕が静香ちゃんを静香ちゃんたらしめる観測者でいられるならそれってすごく素敵だと思わない!?ねえ、どう思う!?」
奇行やマシンガントークばかりが目立つため、周囲の誰も気づいていなかったが、志弦もまた、静香の高度な知的好奇心と読書量に平然とついていけるだけの、規格外の『秀才』であった。彼女の隣にいる資格を得るために、彼は彼女が読む本を全て先回りして読み込み、その知識を貪欲に吸収し続けていたのだ。
そして、周囲が気づいていなかった——あるいは彼のヤバさに相殺されて目を背けていた——事実がもう一つある。
プロテインと筋トレの効果か、ひょろ長かった背丈はそのままに少しずつ骨格がしっかりとし始め、彼の顔立ちはすっきりと洗練されていた。少し癖のある柔らかい茶髪に、長く伏せられた睫毛、そしてアメジストのように深く澄んだ紫色の瞳。黙ってさえいれば、誰もが息を呑んで振り返るような、見目麗しい極上の美少年へと成長していたのだ。
そのため実は、静香に声をかけてきた同級生の中には、静香に用があるのではなく『志弦目当て』の女子生徒も少なからず混ざっていた。彼の整った顔立ちと長身に惹かれ、いつも一緒にいる静香に話しかけることで、どうにか彼に近づく口実を作ろうと画策した者たちだ。
しかし、そんな彼女たちの淡い恋心など、志弦の目には全く映っていなかった。頬を染めてすり寄ってくる女子生徒たちの好意にも、打算的な下心にも、彼は一ミリたりとも気づくことはない。彼にとって、静香以外の人間は背景の木々や石ころと同じ、ただの『動くノイズ』でしかないのだ。
彼にとっての世界は、今も昔も『静香』と『静香が読む本』の二つだけで完全に完結している。
絶対的な知性と美貌を持ちながら、その全てをただ一人の少女のためだけに浪費する、完璧な防壁として機能する美貌の狂人。
今日も志弦は、遠巻きに見つめる周囲の怯えた視線や熱を帯びた視線など一切気にすることはない。ただ隣に座る静香の美しい横顔だけを見つめながら、誰にも邪魔させない空間で、熱っぽく言葉を紡ぎ続けていた。
つづく




