第四話 無力感
それは、二人が小学三年生に進級し、初夏の陽射しが少しずつ肌をジリジリと焦がし始めた頃のことだった。
五時間目の体育の授業。グラウンドには乾いた砂埃が舞い、ドッジボールに熱中する子供たちの甲高い歓声が響き渡っていた。
しかし、その熱狂の渦の中で、静香はいつものように一人だけ完全に温度を失っていた。彼女にとって、ボールをぶつけ合うだけの野蛮な遊戯など、愛読書のページをめくる時間を奪う無駄な苦痛でしかない。
彼女は内野コートの一番端、誰の視界にも入らないデッドスペースにひっそりと立っていた。まるで背景のフェンスの一部にでもなったかのように存在感を消し、落ちている小石を見つめながら、ただ終了のホイッスルが鳴るのを待ちわびていた。
しかし、不運な偶然が重なった。
敵チームの男子が力任せに投げたボールが、味方の足元で弾け、小石に当たって不規則な回転をしながらコートの隅へと軌道を変えたのだ。
完全に上の空だった静香が、自分に向かって飛んでくるその影に気づくのは、遅すぎた。
ボフッ、という鈍い音。
土にまみれた固いボールが、静香の細い膝を直撃した。
衝撃自体は決して強いものではなかった。しかし、完全に脱力して立っていた彼女はあっけなくバランスを崩し、無防備な体勢のままグラウンドへと倒れ込んでしまった。
ザリッ。
容赦なく剥き出しになった固いグラウンドの砂利が、彼女の白く滑らかな膝の皮膚を無惨に削り取った。
鋭い痛みが走り、擦りむけた傷口から、じわりと赤い血が滲み出す。
「あっ!」
「遠井さん、大丈夫!?」
近くにいた女子生徒が悲鳴のような声を上げ、ドッジボールの試合が一時的に中断した。
だが、周囲の生徒たちがざわめき、静香の様子を窺おうと足を踏み出すよりも早く。まるで風を切り裂くような勢いで、誰よりも真っ先に駆けつけたのは、もちろん志弦だった。
「静香ちゃん!静香ちゃん!!だ、大丈夫?!血が!血が出てる!!」
砂埃を上げて滑り込んだ志弦は、文字通り血の気が引いた、蒼白な顔で悲鳴を上げた。
自分のことなら、どれだけ派手に転んで膝を擦りむこうと「わー、転んじゃったー!血ってやっぱり赤いんだね!」と笑って済ませるくせに、静香の怪我となると話は全く別だった。
白く美しい彼女の膝から、赤い血が流れている。その事実だけで、志弦の脳内は警報が鳴り響き、まるで世界が今ここで終わりを迎えるかのような、異常なまでのパニックに陥っていた。
「どうしよう、血が!早く、早く洗わないと……っ!」
彼はわなわなと震える手で、慌てて静香の肩を抱き寄せ、無理やり支え起こすようにして保健室へと向かって歩き出した。
――本当は、お姫様抱っこで連れて行きたかった。
静香の腕を自分の肩に回させ、半ば引きずるようにして進む保健室への道のり。志弦は内心で、己の無力さに対する激しい悔しさにギリッと歯噛みしていた。
足を怪我して、痛い思いをしている静香を、自分の足で歩かせるなんて。本当は絶対に嫌だ。一歩歩くごとに、彼女の膝に痛みが走るかもしれない。彼女の負担を少しでも軽くしたい。ひょいっと腕の中に抱き上げて、彼女の足に一ミリも負担をかけず、軽やかに安全な場所へと運んであげたかった。
しかし、残酷な現実がそこにあった。
志弦のひょろ長く細い腕では、いかに同い年で華奢な静香とはいえ、彼女の体重を安定して抱き上げることは不可能だったのだ。持ち上げようとすれば、かえって彼女を落として傷つけてしまうかもしれない。それが分かっているからこそ、肩を貸すことしかできない自分がひどく惨めで、歯痒かった。
「ごめんね、痛いよね……!すぐ着くから、僕に寄りかかってていいからね……!」
必死に、泣きそうな声で言葉を紡ぐ志弦。
「痛いけど、これはただの擦り傷。歩ける」
そんな志弦の焦燥と自己嫌悪とは裏腹に、静香の態度はどこまでも淡々としていた。
確かに膝はズキズキと熱を持って痛むし、砂利が食い込んでいて不快だ。思わず微かに顔をしかめてはいたが、自分の身体に起きている状況を極めて正確に、かつ合理的に理解している。ただ表皮が擦りむけただけで、骨にも筋にも異常はない。
だからこそ、隣で過呼吸になりそうなほど大げさに騒ぎ立て、自分の無力さに打ちひしがれている志弦の姿を、静香はどこか冷めた、観察するような目で見下ろしていた。
「……大げさ」
ぽつりとこぼれたその呟きに、志弦は大袈裟なほど反論した。
「そんなことないよ!ただの擦り傷なんかじゃない!ばい菌が入っちゃうかもしれないし、もし、もし化膿してこの傷がずっと残ったら大変だ!痛いよね、かわいそうに……っ!僕、静香ちゃんに痛い思いなんて、もう絶対にさせたくないのに……!」
保健室のベッドに静香を座らせ、先生が手早く消毒を済ませた後も、志弦は泣きそうな顔で訴え続けていた。
絆創膏を貼られただけの小さな傷口を、まるで取り返しのつかない致命傷でも負ったかのように、悲痛な目で見つめている。
その常軌を逸した過剰な心配を、静香はやはり「大げさだな」と心の中で切り捨て、完全に聞き流していた。
しかし、志弦の心には、この出来事が深い深い『無力感』となって、消えない烙印のように刻み込まれていた。
僕には、力がない。大好きな彼女が傷つき、痛い思いをしているその瞬間に、軽々と抱き上げて安全な場所へ運んであげる力すらない。
自分のこの細く頼りない腕のせいで、彼女に痛みを堪えさせ、自分の足で歩かせてしまった。それは彼にとって、万死に値するほどの失態であり、絶望だった。
身体を、鍛えなければ。どんな危険からも、確実に彼女を完璧に守れるように。彼女の足が地に触れることすらなく、全てを僕の腕の中で完結させられるように。
その日を境に、志弦の日常に新たな、そして極端なルーティンが加わった。
「ねぇねぇ静香ちゃん!見てこれ、子供用プロテイン!ココア味で美味しいんだよ!あとね、今日のお夕飯はささみとブロッコリーなんだ!筋肉にはタンパク質が大事なんだって!」
数日後の昼休み。志弦は通販で取り寄せた子供用プロテインを専用のシェイカーでカシャカシャと振りながら、図鑑を読む静香の隣で熱弁を振るうようになった。
彼の食事も、小学生が大好きなハンバーグや卵焼きが消え失せ、代わりにパサパサの茹でささみと、味気ないブロッコリーを食べるようになった。
放課後は公園の鉄棒で、手のひらにマメを作りながらも懸垂に挑戦し、家に帰れば自分の部屋で腹筋と腕立て伏せを、腕が上がらなくなる限界の限界まで繰り返した。
しかし、小学生の身体にはあまりにも突然で過酷すぎるトレーニングは、彼に筋肉ではなく『別の弊害』をもたらした。
「……静香ちゃん、筋肉……大事……むにゃ」
放課後の図書室。静香の隣に座り、いつものように息継ぎの隙間もなく喋り続けていたはずの志弦が、突然糸が切れたように机に突っ伏し、寝落ちしてしまうことが増えたのだ。
限界まで体を追い込んだ反動で、小学生の体力が底をつき、圧倒的な睡魔に襲われて気絶するように眠ってしまうらしい。
そして、夕暮れのチャイムでハッと目を覚ました時には、隣の席はすでにもぬけの殻。
静香は、すやすやと眠る彼を起こすことなど微塵も考えず、一人でさっさと帰路についてしまっているのだった。
「ああっ!また静香ちゃんを一人で帰らせちゃった!僕のバカ!僕が守らなきゃいけないのに!でも明日はもっと腕立て伏せ頑張って、静香ちゃんをもっともっと守れるようになるからね!」
翌日、またしてもココア味のプロテインを飲みながら、的外れな反省と決意を語る志弦。
しかし、悲しいかな。
どれだけパサパサのささみを齧り、プロテインを飲み、マメが潰れるまで筋トレに励んでも、志弦のひょろ長い身体は、一向に筋肉で分厚くなる気配を見せなかった。
骨格の問題か、あるいはそういう体質なのか。彼の身体はただ『僅かに血色が良くなり、風邪を全く引かなくなった』という、すこぶる健康的な細身の少年へと変化しただけだった。
圧倒的な『体質』という、残酷な壁。
ある夜、お風呂上がりに鏡の前で自分の細い腕を見て、志弦は何度も打ちひしがれそうになった。いくら力を入れても、思い描くような丸太のように太い腕にはならない。
これでは、静香をお姫様抱っこできる日は、永遠に来ないのではないか。絶望が彼の胸を黒く塗りつぶしそうになる。
「……でも、諦めないよ。静香ちゃんを守れるのは、僕しかいないんだから」
鏡の中の自分を見つめ返し、志弦は歪な瞳でそう呟いた。
体質がなんだ。筋肉がつかないなら、つくまでやり続けるだけだ。
彼は決して折れない決意を新たに、今日もココア味の子供用プロテインを、一気飲みするのだった。
つづく




