第三話 触れてはいけない二人
時折隣にまとわりつく熱源を「邪魔だな」と鬱陶しく思いながらも、静香は無視したり、『離れて』という明確なコマンドを適宜使いこなすことで、平穏な幼稚園生活を乗り切った。
そうして季節は巡り、二人は同じ小学校へと進学した。小学生ともなれば、子供たちの人間関係は少しずつ複雑さを増していく。グループができ、カーストのようなものがうっすらと形成され始める中で、志弦の立ち位置はひどく異質だった。彼はいつしか、同級生たちから『遠井の金魚のフン』と揶揄されるようになっていた。
志弦は同年代の中でも頭一つ抜けて背が高かったが、ひょろ長くて頼りない体つきをしていた。加えて、相変わらず口を開けば意味のないおしゃべりをとめどなく続けるため、どこか軽率でヘラヘラした印象を与え、周囲からは完全に『舐められやすい』対象になっていたのだ。
「おい田草ー!また今日も遠井の後ろくっついて歩いてんのかよ!」
「犬みたいだな、お手でもしてみろよ!」
休み時間の廊下や教室で、やんちゃな男子たちが志弦をからかうことは日常茶飯事だった。
しかし、志弦にその嘲笑は一切届かない。
「犬?犬は嗅覚が人間の数万倍もあるんだよ、すごいよね!でも僕は犬じゃないから匂いじゃなくて目でずっと静香ちゃんを追っかけてるんだ。あ、今の静香ちゃんがページをめくる指先、すごく綺麗だったと思わない?」
何を言われても、暖簾に腕押し。糠に釘。
志弦はニコニコと笑いながら、全く噛み合わない返事をしては、すぐに視線を静香へと戻してしまう。彼にとって、この世界には『静香』と『それ以外』しか存在しない。外野の有象無象がどれだけ自分を馬鹿にしようと、道端に転がっている石ころ程度の認識でしかなかったのだ。
だが、その徹底した無関心が崩れる瞬間が、ただ一つだけあった。
ある日の放課後、掃除の時間。
いつものように志弦をからかって飽きた男子の一人が、ふと標的を変えた。
「つーかさ、遠井も遠井だよな。いっつもムスッとしててさ。全然喋んねーし、気味悪くね?あんな暗い奴のどこがいい――」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
ピタリ、と。
男子がまくし立てる間も構わずペラペラと喋り続けていた志弦の口が、不自然なほど急に閉ざされたのだ。
「……え?」
悪口を言いかけた男子が、違和感に気づいて志弦を見上げた。そこにあったのは、いつもヘラヘラと笑っている薄っぺらい少年の顔ではなかった。
「……僕の静香ちゃんを、悪く言うな」
低く、地を這うような声だった。
ひょろ長の身体から見下ろすその瞳は、深海の底のように黒く、冷え冷えとしていた。一切の感情が抜け落ちたその目は、目の前の同級生を『人間』としてではなく、『排除すべき害虫』として見定めているかのような、圧倒的な威圧感と狂気を孕んでいた。
「ヒッ……!」
男子は言葉を失い、恐怖で顔を引き攣らせると、脱兎のごとくその場から逃げ出してしまった。残された志弦は、バタバタと遠ざかる足音を聞きながら、キョトンと首を傾げた。
「……あれ?どこ行くの?まだお話の途中だったのに」
志弦はパチパチと瞬きをして、いつものヘラヘラした笑顔に戻っていた。
彼自身、たった今自分がどれほど恐ろしい顔をして、どれほどの殺気を放っていたのか、全く自覚がなかった。ただ「静香ちゃんを悪く言われたから、ダメだよって言っただけ」という認識しかないのだ。
しかし、その日を境に、周囲の子供たちは志弦と静香を明確に『触れてはいけない存在』として扱うようになった。彼らをからかう者は一人としていなくなり、遠巻きに見つめるだけの、奇妙な平穏が訪れた。
「……静かになった」
クラス中が腫れ物に触るような視線を向ける中、当の静香は本から顔を上げることもなく、ただぽつりとそう呟いた。
志弦が何をして、周囲がどう怯えているのか。そんなことは彼女にとって些末な問題だった。結果として、自分の読書を妨げる周囲の騒音が消えた。それならば、全てはどうでもよかったのだ。
「ねえねえ!最近クラスのみんな、とっても静かで過ごしやすいね!どうしてだろうね?みんな風邪でも引いちゃったのかな?……でも、静かな方が本、読みやすいね!僕も一緒に読む!」
無自覚な排除を行った張本人は、その結果がなぜ生まれたのか全く理解していないまま、無邪気な笑顔を弾けさせた。結果的に大好きな静香が過ごしやすくなったことだけが、彼にとって最大の喜びだったのだ。
志弦はご機嫌な様子で静香の隣にピタリと座り込み、自分も図鑑を広げる。
横で嬉しそうに語りかけてくる熱源を、静香は今日もただ無言で受け流していた。
つづく




