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たくさん喋る田草くんは、遠井さんの沈黙すらも愛おしい  作者: 柊原 ゆず


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第二話 初めての言葉


 それからというもの、志弦の定位置は完全に静香の隣、あるいは背後へと固定された。まるで、初めて見た動くものを親だと認識した雛鳥のようだった。お絵描きの時間も、園庭での砂遊びの時間も、手洗いの列でさえも、静香の行くところには必ず志弦の姿があった。


「ねえねえ静香ちゃん!今日の給食のハンバーグ、星の形してたね!どうやって星の形にするのかな?お空の星を取ってきたのかなぁ?あ、でもお空の星はすっごく熱いんだよね、図鑑に書いてあったよ!ねぇ、静香ちゃんは星のハンバーグ好き?」


 自分を拒絶しない——と彼が勝手に信じ込んでいる——相手を見つけた喜びに、志弦の口はいつも以上に滑らかになっていた。声のトーンは高く、早口で、絶え間なく言葉のシャワーを浴びせ続ける。

 しかし、静香が言葉を返すことはない。彼女は黙々とクレヨンで画用紙を黒く塗りつぶし、あるいは無表情で砂山のトンネルを掘り続けている。志弦の機関銃のようなおしゃべりは、彼女にとって依然として『ただのBGM』だった。

 ある日の午後。

 お昼寝の時間が終わり、プレイルームにはぽかぽかとした西日が差し込んでいた。部屋の隅の、日陰になる涼しい場所で、静香はいつものように一人で図鑑を広げていた。もちろん、そのすぐ隣には志弦がぴったりと寄り添っている。


「それでね、僕のお家の前の道に、昨日すごく大きなミミズさんがいてね……」


 とめどなく喋り続けていた志弦は、ふと、言葉を途切らせた。

 すぐ横にある静香の横顔に、不意に目を奪われたのだ。

 窓から差し込む柔らかな光が、彼女の白く透き通るような肌を微かに照らしている。長く伏せられた睫毛が頬に淡い影を落とし、ガラス玉のように静かな瞳は、ただひたすらに図鑑のページだけを見つめていた。

 その人間離れした静謐な美しさに、志弦は無意識に息を呑んだ。

 横顔を見つめていると、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、不思議で温かく、それでいて甘くドロドロとした気持ちが込み上げてきたのだ。

 みんな、僕のおしゃべりに疲れて、最後には耳を塞いでどこかへ行ってしまうのに。この子だけは、ずっと僕の隣にいてくれる。僕の声がする空間から、逃げないでいてくれる。彼女は僕のことを全て受け入れてくれているんだ。

 志弦の心は強烈な歓喜で満たされていく。


「……えへへ。静香ちゃん、だぁいすき♡」


 志弦はとろけるような笑顔を浮かべ、抑えきれない衝動のままに、静香の背中にぺたりと身を寄せた。そして、彼女の小さな肩に細い腕を回し、自分の頬を彼女の柔らかい頬にすり寄せるようにして、後ろからぎゅっと抱きしめたのだ。

 ふわりと、静香の髪からお日様と石鹸が混ざったような清潔な匂いがした。子供特有の高い体温が、服越しに直接伝わる。トクトクと激しく脈打つ志弦の嬉しそうな心臓の鼓動までもが、静香の小さな背中をノックしていた。

 普通なら「やめて」と突き飛ばされるか、嫌がって泣かれる場面だ。志弦自身も、過去に無遠慮に他人に触れて怒られた経験はある。

 だが、静香はやはり突き飛ばさなかった。ただ、図鑑をめくる手をピタリと止め、わずかに眉を動かした。

 数秒の、奇妙な沈黙。

 やがて、ずっと閉ざされていた静香の桜色の唇が、わずかに開いた。


「……あつい……」


 ぽつり、と。

 鈴を転がすような、涼やかで美しい響き。けれど、そこには子供らしい感情の起伏がすっぽりと抜け落ちた、ひどく平坦で温度のない声が落ちた。

 それは、照れ隠しでも、嫌悪感から来る拒絶でもなかった。真夏に分厚いマフラーを巻かれた時のように、ただ純粋に『物理的な熱源がまとわりついていて不快である』という事実の報告に過ぎなかった。

 しかし、志弦の耳には全く別の響きを持って届いていた。


「あ……」


 志弦は、静香の肩を抱きしめた腕の力を一ミリも緩めることなく、ぱぁっと顔を輝かせた。

 喋ってくれた。あんなに頑なに閉ざされていた唇が動いて、僕の声に応えてくれた。僕のためだけに、その可愛らしい声を初めて聞かせてくれたのだ!

 全身の血が沸き立つような高揚感が、志弦の体を駆け巡る。

 しかも、と志弦の都合の良い脳は急速に回転し、言葉の裏側——と彼が勝手に思い込んでいるもの——を解読し始める。

 彼女はただ『暑い』と言っただけだ。僕の腕を振り解いて『離れて』とは言わなかった。

 ということは、暑いのさえ我慢できれば、こうして抱きしめていてもいいということだ。僕がくっついていること自体は、許されているんだ!


「あつい?そっかあ、あついかあ。僕、いっぱい走ってきたから体がぽかぽかしてるんだ!ごめんね」


 口では謝りながらも、志弦はさらにすりすりと自分の頬を彼女の頬へと押し付けた。


「でもね、僕、静香ちゃんがあったかくてすごく気持ちいいよ。静香ちゃんの匂いも、やわらかいところも、ぜんぶ好き」


 志弦の顔に、とろけるような、それでいてどこか粘着質で甘い笑みが広がる。彼女の初めての言葉は、志弦の心に深く、二度と抜けない致命的な杭を打ち込んだ。

 彼女が『あつい』と鬱陶しそうに目を細め、わずかに顔をしかめるその表情すらも、志弦にとっては『僕だけのもの』という証であり、宝物のように愛おしかった。






 静香は、じっと動かないまま思考を巡らせた。

 彼女の脳内は、喜怒哀楽よりも合理性で構成されている。今、彼女の目的は『この鬱陶しくまとわりつく熱源を排除し、静かに図鑑を読む環境を取り戻すこと』であった。

 先ほどの『あつい』という状況説明だけでは、この熱源には意図が伝わらない。どうやら、この生き物に対しては、明確な行動を指示する『言葉』を使わなければならないらしい。

 静香は一つ、学習した。

 彼女はゆっくりと首だけを動かし、自分の肩に顎を乗せて至福の表情を浮かべている志弦を見つめた。ガラス玉のような、感情の読めない冷ややかな瞳が志弦を射抜く。


「……はなれて」


 それはお願いでも、怒りでもなく、ただの淡々とした『命令』だった。余計な感情が一切乗っていないその声に、志弦はハッとして動きを止めた。


「……えっ」


 志弦は目を瞬かせ、ゆっくりと静香を縛り付けていた腕を解いた。

 明確な『拒絶』の言葉。彼女の口から直接それを突きつけられたことに、志弦は目に見えてしゅんと肩を落とした。子犬が耳と尻尾をパタパタと下げたような、あからさまに残念そうな表情になる。

 嫌われたくない。彼女の『特別』でいたい。だから、彼女が「離れて」と言うなら、それに従うしかない。

 志弦が体を離すと、まとわりついていた熱が嘘のように引いていった。

 静香は乱れた服の襟を小さく直すこともせず、志弦の方を一瞥することすらなく、再び視線を手元の図鑑へと戻した。

 ページをめくる、カサッという乾いた音。

 何事もなかったかのように、彼女の時間はいつもの静寂へと戻っていく。彼女にとって、志弦が離れたことへの安堵すらどうでもよく、ただ「本を読む邪魔がいなくなった」という事実だけがそこにあった。

 その徹底した無関心さに、志弦の胸の奥で何かがチクリと疼いた。

 寂しい。もっと触れていたい。もっと僕を見てほしい。

 でも、怒らせて本当にどこかへ行かれてしまったら、僕はとても悲しくて、どうしたらいいか分からなくなってしまいそうだ。

 志弦は、静香と自分の間にほんの数センチだけ、隙間を空けた。

 触れない。だけど、彼女の体温と、図鑑の紙の匂いを感じられるギリギリの距離。


「……ごめんね、静香ちゃん。僕、ちょっとくっつきすぎちゃった」


 志弦は少しだけ上目遣いになり、静香の横顔を覗き込んだ。


「でも……隣にいても、いいよね?」


 それは、問いかけの形をした確認だった。

 『くっつくのはダメって言われたからやめる。でも、隣にいることは禁止されていない』

 志弦の都合の良い解釈が働く。静香は、志弦の問いかけに頷きも首振ることもなく、ただ沈黙のまま図鑑を見つめていた。

 「隣にいるな」とは言われない。その沈黙を『許可』だと受け取った志弦の顔に、再びじっとりとした甘い安堵の笑みが戻る。

 こうして、二人の間には『明確に言葉で拒絶されない限り、志弦は何をしてもいい』という、歪で絶対的なルールが出来上がってしまったのだった。


つづく

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