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短篇おまとめぶくろ  作者: 未定


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8/11

海のまわりで

 その時期よく海を見に行っていた。なぜという理由もない。海が近くにあったからといえばそれまでだ。山が近くにあったら登ったかもしれない。橋が近くにあったら渡っただろう。そういうふうにしておれは海を見に行った。いつもざぶんざぶんと飽きもせず波を打っていた。


 そこにはいろんなやつがいた。見るからに恋人同士というやつらが肩を並べていることもあれば、この世からひとりぼっちを宿命づけられたような男がぽつねんと木の枝をいじっていることもあった。おれはそういうなんでもない景色を見ながらゆっくり歩いて帰ってくる。この世はそうする以外に何もすることがない場所だった。


 ある曇りの日だったが、いつものように浜辺の段差に座りに行くと、海はこの町に近づきつつあるという台風の影響で荒れぎみだった。曇りの日の海というのは墨を混ぜたように黒かった。夏ももう終わろうとしていて、風がなまぬるい。


 おれは一人のばかを見つけた。黒みを帯びた海のなかに服を着たまま入って行く人間だ。そいつは胸まで水のなかに浸けてしまった。おれはそいつが死のうとしているのではないかと思って、何かきれいなものを見る気持ちで眺めていた。やがてそいつの頭が水のなかに消えた。


 おれの顔面にライトグリーンのフリスビーが衝突した。


「すみません!」


 すぐに謝りに来たのはさっきからそのへんでフリスビーを投げ合って遊んでいた中学生くらいの少年たちだった。おれは別にいい、気にするなと言ってやり、フリスビーを拾ってやった。彼らは気まずくなったようで、おれから遠く離れたところに移動して行った。それからしばらくまた投げ合っていたが、そのうちやめて帰って行った。


 海から妖怪が上がってきた。長い黒い髪がべったりと顔面に張りついていて、服からぽたぽたとしずくを落とし、靴は片方脱げて、その足でよろよろ歩いている。よく見ると女だったが、その距離からでもわかる猫背で、薄気味悪かった。


 その女はとぼとぼと歩いてきて、おれの六メートル横を通って、段差をのぼると、町のほうへ消えて行った。と思ったら、戻ってきた。また海のほうに向かっていく。今度こそ死ぬ決心がついたのだろう。そうだよな、この世はそうするべき場所だよな、とおれはひそかにひとりごちた。しかし女は海には入らず、砂浜にしゃがんで膝を抱えだした。泣いているようにも見える。おれはそろそろ帰ろうと考えた。


 それから二日ほどすると、この町はすっかり嵐に飲み込まれてしまった。風がびゅうびゅう吹いて、雨がざあざあ降った。おれはむかし飼っていた犬が外飼いで、ちょっとやそっとの嵐では家に入れてやらなかったことを思い出した。構ってやることも少なく、なんのために生まれてきたのかわからない犬だった。その犬は、あのとき浜辺で見た女に少し似ている。濡れそぼったときの毛のへたり方がそのままだった。


 嵐は強くなる一方だったが、ばかな知人がこんな日にわざわざおれを訪ねてきた。缶ビールを六缶も持ち込んだが、そいつはおれが飲まないことを知っているはずだった。そいつは自分ばかりその缶ビールを空けていった。


「死ぬのはやっぱり難しいのかな」とおれが言った。

「なに死ぬのなんて簡単さ。簡単すぎるからみんな生きてるのさ」

「あんたの言うことはよくわからないよ」


 そいつはからっぽの缶を六つ並べて帰って行った。何をしに来たのかわからなかった。


 何日か経って、台風がどこかに消えてしまうと、また海を見に行った。早朝だったが、見たことのあるシルエットがあると思ったら、あのばかな知人だった。そいつは海を見るようなことを人生の無駄な時間に数えるタイプだったから、ここにいるのは奇妙だった。


 おれとそいつは編集者に誘われた食事会で出会った。おれが本を書いていた時代、そいつはおれより圧倒的に売れていた。そのくせいつも世界から裏切られたような顔をしていた。飲みの席で、店員にタメ口をきく人間だとわかったので、おれは初めからそいつが嫌いだった。もちろんこれは、おれが店員にタメ口をきかないということを意味しない。


 そいつは砂浜にしきりに穴を掘っていた。しかし穴はやわらかな砂がふちから崩れることですぐに埋まってしまうようだった。


「穴を掘るのは楽しいよな」とおれは話しかけた。

「楽しいもんか。俺は本当はこんなことしたくねえんだ。でもこうしないではいられないんだ」

「そうかい。まあそんなもんだよな、生きるってのは」

「夢だ。夢を見たんだ。その女は俺に穴を掘れと言った。そうしなければ俺の寿命を食ってやるって言ったんだ。髪の長い、全身濡れそぼった女だった」

「なるほどな。わかったよ。でも寿命を食われるのはありがたいかもしれないだろ。命長ければ恥多しって言うしな」

「あんたはのんきなんだよ。あんな夢見たら、こうしないではいられねえ」


 太陽がじきに昇ると、この時期には珍しい暑苦しい日になった。おれは歩き疲れるほど町を歩いて、歩き回って、そうしてスーパーでサイダーを三本買った。そのうちの一本を飲みながら、浜辺に帰ってくると、炎天下ともいえる焼けるような砂浜で、まだ穴を掘っているそいつを見かけた。頭がいっちまったのかもしれないと考えた。本当のことを書こうとするタイプの物書きは、誰でも多かれ少なかれ頭が弾けそうになる経験をしているものだ。だから近頃では嘘を書くやつがほとんどだ。それでいいのだと思う。


「サイダー飲むか?」とおれは近づいてから言った。

「見つからないんだ。どうしよう。俺はあの女に……」

「あんた、ちょっと休んだほうがいいよ」

「そうだ。休んだほうがいい。でもどうやって? 体が苦しいならいくらでも休める。でも心が苦しいなら休めないじゃないか。どこへ逃げたって、心はくっついて来るじゃないか。あああ、もう! 嫌なんだよ何もかも!」

「で、サイダーは飲むのかよ」

「飲むよ」


 そいつはサイダーを一気に飲み干した。その一週間後、そいつの親が郷里からそいつを迎えに来て、そいつはどこかの病院に入ることになったらしい。ビールを六缶も空けるからそんなことになるんだ、とおれは日記に書いた。それから、もしかしたらあいつがおれの唯一の友達だったかもしれないと書こうとして、なんとなくだが、やめておいた。


 しばらく海を見に行かない日が続いた。その間、部屋で一日にどれだけの時間エロ動画を見続けられるかという実験をやって、おれたちが日頃からあんなに求めてやまないエロにも食傷というものが訪れることを知った。女の尻も男の尻も魚肉ソーセージにしか見えなくなる時間というのがやってくるのだ。これは意外だった。


 久しぶりに海を見に行くと、あいつの掘った穴などとうに消え失せて、風は以前より冷たくなり、またしても台風が雲を投げてよこしていた。おれはそこの段差に、どこかで見たようなひどい猫背の女を見つけた。性的興味を起こさせない風貌をしている。初めから魚肉ソーセージなのだ。


 彼女は眼鏡をかけていた。あの日はかけていなかったように思う。もしかしたらあの日は波に持っていかれたのかもしれない。彼女の鼻に乗っかっているその眼鏡は、遠慮する必要もないのに、顔の見えない誰かに遠慮して選んだような、彼女を地味に見せるのにぴったりの、なんの特徴もないものだった。そうやって生きてきて、そうやって死んでいく女に見えた。顔のない誰かに遠慮する人生。


 この日はなんとなく波打ち際まで行った。靴を濡らさない程度のところを歩いていると、何かが流れ着いているのを見つけた。フリスビーだとわかった。ライトグリーンではなく、ショッキングピンクだった。それを拾い上げると、かなり硬い材質だった。おれはそれを人に当たらないように、天高くに向かって強く投げた。が、それは風に流された。加えて、猫背の女はなぜか段差から砂浜へ移動していた。あとはお察しの通りだ。


 女は目のあたりを押さえていた。おれは謝るほうが安全だと考えた。


「どうもごめんなさい」


 女は眼鏡を外した。フリスビーの硬い材質は、その眼鏡の片方のレンズに傷を入れずにはおかなかったようだ。女はそれを近視のために睨むようにして見ていた。


「どうもごめんなさいね」とおれはまた言った。

「なんなんでしょうね、私の人生って」

「まあそんなもんですよ」

「普通当たりませんよね。私がどうしようもないからですよ」

「そうかもしれない。で、眼鏡っていくらくらいします?」

「いいです。私に似合うようになったと思うことにします」

「なんで海に入ったの?」

「え?」

「何週間か前に」

「ああ……」女は眼鏡をかけた。「セックスだけされて捨てられる女ってどう思います?」

「いい女ってそんなもんだよ」


 女は何も言わなかった。おれは家に帰った。


 それから何日かあとにまた嵐が来たが、今回はそんなに強くなかった。テレビのニュースでは隣の隣にある県がひどいことになっているということだった。豪雨で氾濫した川によって家屋が一軒流されてしまった。それを見て家主のおじいさんが「ああ……」と悲しそうな声を上げた。数えきれないほどの思い出があったのだ。おれはその光景をきれいなものの一つとして数えた。


 海を見に行くなかで猫背の女と会う機会が増えていった。彼女はさすがにそのままにはせず、眼鏡を新調したらしかった。それはやはりなんの特徴も感じさせなかった。おれたちはいつもぽつりぽつりと雨垂れみたいな会話をした。


 一ヶ月近く経つと、風はだいぶ冷たくなった。あるときトンビのような大きなのが飛んでいて、段差に座った彼女が、それを見上げた。その見上げ方はなんとなく彼女を魚肉ソーセージから遠ざけた。おれは彼女の手を取ってみた。彼女は握り返してくれた。おれたちが寝るようになったのはその日からだった。


「あなたは私を捨てないでしょ?」女が聞いた。

「捨てないよ。初めからおれのものじゃないだろ」

「いじわる言わないで」

「そういうのは勘弁してくれ。お互いに穴埋めだろ? わけのわからないばかやろうに掘られた穴を埋めるためにいるんだ、お互いに。それ以上じゃない」


 女は泣いた。悲しそうだった。


「悪かったよ」とおれは言った。「大切にするよ。おれにできる限りは」


 女との関係は年を越すころまで続いた。年が明けて、彼女が妙におどおどすることがあったので、ちょっと聞いてみると、問い詰めるというほどでもなかったのに彼女は泣き出して、ほかの男と寝たことを白状した。その男は彼女があのとき海に頭まで沈むきっかけを作った男らしかった。おれには彼女がまだその男にぞっこんだということがわかった。


 別れてしまってからはなんとなく空虚だった。彼女はひどい猫背だったが、魚肉ソーセージなんかでは全然なかった。悪くなかったのだ。しかしやっぱりセックスをして捨てられることを天から命じられている女だった。どうしてもそうなってしまう人間というのは、確かに存在する。


 実家に帰ったとき、あの女に似ていて、外飼いで、全然構ってやらなかった犬が、すっかり老犬になっておれを迎えてくれた。いまでは室内に入れられて、一日中寝て過ごしている。おれはその犬のそばで、ついこのあいだ届いた手紙を読み返してみた。おれと物書きという呪いを共有するそいつは、もう病院から出ているらしい。今度飲みに行こうと、あいつには珍しい素直さで書いてあった。もう大丈夫だということだ。いろいろと。


「あんたいい人いないの、そろそろ」と母がおれに聞いた。


 おれは本物の魚肉ソーセージを歯で剥いて食べた。そうして自分がことのほか情を移しやすいのだということを知った。

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