限界
「えいーあいあ。あいあーおん。おんんん~、あいっだっははははっはぁ~!」
「うん……うん……」
午前0時。コウタは元気に遊んでおり、リョウジはもはや反応するだけで精一杯だった。
併設されている酒場はまだ活気に溢れているが、宿の部分はすっかり静まり返っている。その中で、コウタの声だけが響いている状態である。
睡眠時間は同じはずだが、元気いっぱいのコウタに対し、リョウジは本格的に限界だった。その目の焦点は合っておらず、半ば機械的にコウタの相手をしているに過ぎない。
「寝ねえかな……マジで、お前よくそんな元気だよな……俺死ぬぞマジでほんと……」
口調のみならず、言葉の並びなども若干怪しくなってきており、もしこの場に妻の由美がいたら、問答無用でベッドに放り込まれていたことだろう。
それでも、誰かに任せるということができないため、リョウジは耐えるしかなかった。しかし、今回に関しては度を越していた。
「おーぃおー、ありあ。あいーんぃ~い~?んどぅっはっはっは!」
「……楽しいね」
何とかそう返すのが精一杯だった。仮に何かを考えてしまえば、眠らない息子に対する、怒りと憎悪が爆発してしまう可能性が大きかった。
それ故に、もう心を完全な無にして、コウタが眠るまで相手をする機械になろうと、リョウジが決意した時だった。
ドン!ドン!ドン!と、壁が乱暴に叩かれ、続いて男の怒鳴り声が聞こえた。
「うるっせえんだよ!さっさとそのガキ黙らせろよ!」
プツンと、リョウジの中で何かが切れた。
もはや、まともな思考力など残っていない上に、生来は気が短く、怒りに任せてとんでもない行動を起こす男である。
リョウジは愛用のフレイルを手に取ると、お返しとばかりに思い切り壁に叩きつけた。
ドゴン!と、先程の数倍の音が響き、木球が男の部屋まで飛び込んだ。危うくそれを頭に受けかけた男は、驚いてベッドの上から転げ落ちた。
「うおあ!?てっ、てめえ何しやがるんだよ!?」
「だぁってろクソが!こっちだって眠れてねえんだよ!黙らせられんならとっくにやってるわ!馬鹿野郎めが!」
そう叫びながら、リョウジは再びフレイルを壁に叩きつけた。
叫んだ男の側から見れば、完全な逆切れである。しかし、フレイルを振り回すその男の目は血走っており、まして宿屋の壁を破壊するなど、とてもまともな精神状態には見えなかった。薬物中毒を疑い、衛兵に通報するか、あるいはこの場で制圧するかと考えた瞬間だった。
やおら、リョウジはポケットに手を突っ込むと、壁の穴から何かを投げつけた。
男は咄嗟に身をかわし、チャリンと音を立てたそれを見ると、投げつけられたのは数枚の金貨だった。
「それやるから黙ってろよ、クソが!」
「……おう!悪かったな!頑張れよ父ちゃん!」
日本円にすれば、数百万の臨時収入である。男は見事な掌返しを決め、金貨を大切に財布にしまってから、再びベッドに横になった。
一方のリョウジは、かろうじて欠片程度に残っていた理性で、この場を動くことに決めた。周囲の迷惑になっているのは事実であり、ましてここで遊び相手になっていたところで、まだしばらくは寝ないのだ。だったら、外にでも出た方が、幾分か状況がマシになるかもしれない。
「コウタ……散歩、行こう。散歩。夜散歩」
「おぃいあ、でげ?」
「そう、お出かけ。はい、行くよ」
手を出すと、コウタはそれを掴まず、リョウジの前に来ると両手を挙げてぴょんぴょん跳ね始めた。
「ん~~~~」
「……はい、抱っこね、はい。マジで寝ろな?寝るならいくらでも抱っこぐらいするから」
重さ10キロを超える息子を抱え、リョウジはふらつく足取りで部屋を出る。すると、ちょうどそこへ先程の物音を聞きつけた宿の主人が来るのが見えた。
「おいあんた、何かすげえ音が聞こえたが、一体何したんだ?」
「あああめんどくせえぇぇぇ……!」
世の中の全てを呪いかねない心境のリョウジは、大きな舌打ちをしてそのまま通り過ぎようとする。
「おいちょっと待て!何をしたんだと聞いてるんだ!」
「うるせぇうるせぇうるせぇ……あああクソっ!ほっとけよクソが!壁ぶち抜いたぐらいでガタガタ騒ぐんじゃねえよ!」
「壁をぶち抜いた!?お前っ……何してくれやがるんだ!?叩き出すぞ!?」
再び、リョウジは片手でコウタを支えつつ、ポケットに手を突っ込むと主人に硬貨を投げつけた。
「足りなきゃ言え!黙ってろ!」
「うおっと!?なんっ……お前、たかが大銀貨一枚程度で……」
言いながら手の中の物を確認すると、それは金色に輝く大きな硬貨だった。壁の修理どころか、建物の増築をしてもおつりが来る。
「……よし!夜中でも朝でも、いつでも戻ってきな!」
再びの見事な掌返しの台詞を聞きながら、リョウジは宿を出て夜の町中を歩きだした。
現代日本とは違い、この世界には街灯はない。たまに不寝番の衛兵がいる場所に篝火が焚かれていることはあるが、基本的に夜はどこも暗い。
この日は幸い満月であり、なおかつよく晴れていたため、明かりなしでも十分に歩くことができた。そんな中、息子を抱えたリョウジは亡霊のような足取りで歩き続ける。
「おいお、おいーあいん、あい」
「明るいね……月。月だね」
「おうい。い、あいあ」
「うん……早く寝てね」
ほとんどの家の明かりは消えており、たまに窓から蝋燭かランプの光が漏れている家もある。物音はほとんどなく、たまにそよ風が吹いてくる音と、リョウジの足音しか聞こえない。
「おーいんあ。おいーんい」
「みんな寝てるね……寝たいね、俺等も。好き勝手寝やがって、畜生どもが……」
それら全てを心の中で呪いながら、リョウジは歩き続ける。今ここで死ねば、確実に悪霊となるであろうほどの闇を抱えつつも、それでもコウタに当たり散らすことだけはすまいと、リョウジはただただ歩き続ける。
とにかく眠い。そして腕が痛い。足と腰にも少しずつダメージは蓄積している。
これが日本ならば、妻と交代しつつ寝かしつけることもできた。夜の散歩ではなく、車に乗せて夜のドライブをするという手段も使えた。
しかし、今は頼れる者はおらず、車はもらったコウタカーぐらいであり、薬にすら頼れない。
「帰りたいね、日本……」
「おーりあー?おぅはははははぁー!」
それでも、小一時間ほど歩いていると、さすがのコウタも眠くなってきたようで、少しずつテンションが落ち始めた。だが、すぐに戻ると寝ない可能性が大いにあったため、リョウジはもう少し散歩を継続することにした。
ただただ、無心で散歩を続けていると、不意に光を感じた。続いて数名の足音が聞こえ、リョウジの方へと近づいてくる。
普段であれば、その足音の主が何かを確認していただろう。しかし、この一週間の合計睡眠時間が、15時間程度しか取れていないリョウジにそこまでの余裕はなく、ただただ思念を空に飛ばして歩き続けていた。
「そこの男、子連れのお前だ。少しいいか?」
「……?」
突如聞こえた声に、リョウジは不思議そうに辺りを見回す。近くには3人ほどの衛兵がおり、なおかつ自分とコウタ以外には人がいないという状況に気づくまでに、数秒の時を要した。
「……俺ですか?」
「そうだ。お前、こんな時間に何をしてるんだ?それに、その子供は?」
ああ職質か、と、ぼんやりした頭で思う。そして、思いっきりうんざりした表情を浮かべ、特大のため息をついた。
「は~~~~ぁぁぁ……見ての通り、散歩です。うちの子です」
「いや散歩とは言うがな……こんな時間にか?しかも子連れで、こんな時間に散歩をするのか?」
「子連れだからこそだけどな。寝ねえんだよ、マジで。散歩でもすりゃ寝るかと思って、散歩してるわけ」
「あーいあ。あーぉお~?」
話し声に反応し、コウタが目を開けて喋りだした。それを見た瞬間、リョウジの目からは急速に光が消えていった。
「うんそう、職質。お前のおかげでね」
若干の恨みのこもった口調で、リョウジはコウタに無表情な声で答える。
はっきり言って、どう見ても不審者であった。まして、リョウジは身だしなみを整えることもできず、状況だけでなく見た目も不審人物になっていたのが災いしていた。
「すまんが、お前が言っていることが本当か確かめたい。詰所まで同行を願おうか」
「……あのよぉ……」
普通に考えれば、ここで冒険者タグを渡せば万事丸く収まっただろう。だが、今のリョウジは全く頭が回っておらず、しかも非常に攻撃的な性格が剥き出しになっており、タグのことなど頭の片隅にさえ引っ掛かりはしなかった。
「こいつだけじゃなくて、てめえらも俺に寝るなってのか?ああ?ったく、クソが……宿屋にいりゃあ『うるせえ』って言われて、外に出たら不審者扱いか。俺にどうしろってんだよ、なあ?なあ!?」
血走った眼を見開いて詰め寄ってくる男に、衛兵達は思わず身構えた。直後、その一人が明らかに狼狽え始める。
「あ、あれ……!?なんでだ、発動しない……!?」
「おい、何してるんだ!?早く拘束しろよ!」
「だから、発動しねえんだよ!さっきからずっとやろうとして……あっ!?」
突如、狼狽えていた男から縄が飛び出し、もう一人の男をたちまちのうちに縛り上げてしまった。
「おいぃ!?なんで俺を拘束すんだよ!?」
「わ、悪い!ちょっと『お前なら?』って思っちまった……!」
「いいから早く解け!」
後ろで頼もしい仲間二人が盛り上がっているのを感じながら、先頭の衛兵は異様な不審者相手の対応に苦慮していた。
「悪いとは思うが……」
「思ってるなら黙ってろよ!思ってもいねえなら言うんじゃねえよ!クソが、みんなくたばれマジで!」
「だが、我々は町の安全を守るのが仕事だ。少しでも犯罪の可能性があるなら……」
「はいはいはいはいご立派ですね!寝そうになってた息子を叩き起こして俺の睡眠時間を消し飛ばして、おまけに犯罪者扱いか!ふざけんなマジでよぉ!」
もはや実力行使で黙らせるしかないかと考え始めた瞬間、リョウジは衛兵の腕にコウタを押し付けた。
「な、何を……!?」
「犯罪に巻き込まれた可哀そうな子供なんだろ!?だったらてめえらでどうにかしな!寝そうになってたところ叩き起こしやがって!寝かしつけも機嫌取りも、全部てめえらでやりやがれ!」
もう、リョウジは完全に限界だった。
これまでずっとワンオペでの育児に、さらに命のやり取りを含む危険な仕事を続け、その上で寝る時間まで奪われたのだ。
大切な可愛い息子だとは言っても、その息子が原因の大半である。『子供から解放されて寝たい』という考え以外は、もはや出てこなかった。
「とた?とたぁ!?」
慌てて縋り付こうとするコウタの腕を振り払い、リョウジは足早に去っていった。突然子供を渡された衛兵は身動きが取れず、後ろの頼れる仲間二人はようやく立ち上がったところだった。
「お、おい!あいつを逃がすな!」
「だったら俺がっ……な、なんだ!?スキルが発動しねえ!?」
「だから言っただろ!?あいつ、たぶん『スキル無効化』か何かのスキル持ちだ!」
「とたぁ!だーんーん!だんーんー!とたぁ!」
コウタも何かしようとしているようだったが、スキルは全く発動していない。それどころか、衛兵達のスキルも完全に封じられていた。
「……くそ!『千里眼』も発動しないぞ!あいつを見るだけじゃなくて、そもそもスキルが発動しない!」
「ど、どういうことだよ!?周囲のスキルを無効化してるってのか!?」
初動が完全に遅れたため、もうリョウジの姿は見えなくなっている。後に残ったのは、父を求めて泣く幼児と、それを押し付けられた衛兵三人だけである。
「……とりあえず、この子を連れて詰め所に戻ろう。あいつの話はその後だ」
「あの~……俺、ちょっと嫌な予感がするんだが……」
同僚を拘束した衛兵が、おずおずと口を開く。
「確か、一週間くらい前に、この町に来たって情報なかったっけ……?」
「何がだ?」
「……『子連れ狼』」
「……」
一同はコウタを見つめ、頭のおかしな子供を連れているS級冒険者の情報を思い出し、揃って頭を抱えた。
「……な、何にしろ、いったん戻ろう……あいつが泊まっている宿を、一刻も早く探さないといけないしな……」
こうして、衛兵達の長い夜は、幕を開けたのだった。




