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第3話 返事

女の笑い声が、まだ路地裏に響いていた。


女は首を傾げる。

まるで、愛しい恋人を見つめるような目で俺を見ていた。



「ふふ……」



突然、女が身をかがめた。


冷たい唇が、俺の唇に触れる。




「……は?」


何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


……え。


今、こいつ……俺にキスしたのか?


そう理解した瞬間、俺はようやく我に返った。




俺は反射的に女を引き離そうとした。


だが、俺が動くより先に、女はすっと離れていった。




「じゃあね、魔王様~」


「待て――!」


俺は慌てて手を伸ばした。


けれど、遅かった。



女の身体が、紫色の煙へと変わっていく。


そのまま煙は、夜の闇へ溶けるように消えていった。



「……くそっ」


俺は拳を地面に叩きつけた。




しばらくの間、俺は微動だにしなかった。


どれくらい経っただろう。


やがて、俺はゆっくりと視線を落とした。



「……シア」


そこに、彼女はいた。



白いドレス。


泥にまみれた身体。


血に濡れた服。


そして――


二度と元には戻らない、その身体。




俺はその場に膝をついた。


足元の血溜まりが、ゆっくりと広がっていく。




胸の傷は、もうとっくに塞がっていた。


だったら、どうして――。


どうして、シアだけは……


もう、元には戻らないんだ?




「俺のところに戻ってきてくれ……頼むから、戻ってきてくれよ」


俺は震える手を、シアの身体へと伸ばした。


指先が、冷たくなった身体の奥へ沈んでいく。




そして――


俺は、彼女の魔力核を取り出した。


かつては絶えず魔力を巡らせていた魔力核は、もう動いていなかった。


それでも、俺にとっては……

シアが残してくれた、たった一つのものだった。


「……大丈夫だ」


誰に言っているのか、自分でも分からなかった。


「大丈夫……」


俺は魔力核を強く握りしめる。


「俺が……ちゃんと連れ戻してやる」


そう呟いて――


俺は口を開いた。


そして、その魔力核を飲み込んだ。




「……戻ってきてくれ」


まるで、祈るように。


「シア」


けれど……何も起こらなかった。




――あの年の、雨の夜。


空気には、血の匂いが漂っていた。


そして――あの女の笑顔。


名前は知らない。


ただ、その顔だけは。


俺は、決して忘れなかった。




あの日から、俺は一日たりとも忘れたことがない。


あのとき、俺はクローゼットの中で震えていた。




外が怖かった。


出ちゃいけない。


絶対に、声を出しちゃいけない。




そう思っていた。


隙間から見えたのは、床に倒れている父さん。


そして――母さん。




黒いローブをまとった女が、母さんの胸元に手を伸ばしていた。




「……やめて」


声が出なかった。




そのとき、母さんがゆっくりとこちらを振り向いた。


その顔を、俺は今でもはっきり覚えている。


優しい顔だった。


いつもと何も変わらない――母さんの顔だった。




女が振り返った。


目が合った。


……終わった。


逃げられない。




次の瞬間、クローゼットの扉が乱暴に開かれた。


「……ひっ」


俺は無理やり引きずり出された。




そして女は、まるで何でもないことのように母さんの胸元へ手を伸ばした。


しばらくして――


女の手の中に、魔力核があった。




まだ、動いている。


眩しいほどに、輝いていた。




女はそれを、俺の手に無理やり押しつけた。


『食べなさい』


「……嫌だ」


『食べなければ、死ぬことになる』


「嫌だ……」


『なら、死になさい』


冷たい声だった。


母さんの魔力核を手にしている。




目の前には、母さんの顔がある。


なのに――


俺は全身を震わせながら、口を開いた。


一口目。


吐き出した。


二口目も――吐き出した。


それでも、女はそこにいた。


何も言わず、ただ待っていた。




「……うっ」


三口目。


ようやく、飲み込んだ。




その瞬間――


頭の中に、声が響いた。


――ルクラン。




優しい声だった。


母さんの声だった。


「……母さん?」


返事はなかった。




けれど、それからだった。


夜が深くなると、ときどき聞こえるようになった。


俺が泣いているとき。

怒っているとき。

もう何もかも嫌になったとき。


いつも、母さんの声が聞こえた。




だから俺は、ずっと信じていた。


失ったものは、完全に消えてしまうわけじゃない。


自分の中に、残り続けるんだ。


俺は、ずっとそう信じていた。




「……シア」


俺は目を閉じ、待った。


一秒。


十秒。


一分。


何も聞こえない。




「……シア?」


返事はない。


もう一度、呼んだ。


「シア」


やっぱり、何も聞こえない。


母さんの声も。




あの甘えるような声も。


「クル」と呼ぶ声も。


何も。


「……どうして」


唇が震えた。


「どうしてだよ……!」


拳を床に叩きつける。




一度。


二度。


三度。


「どうして……」


「お前は……俺の中にいるんだろ……?」


返事はない。


「いるんだろ!?」


それでも、何も聞こえなかった。


「……頼むから」


声が、少しずつ小さくなる。


「答えてくれよ……」


月明かりだけが、静かに降り注いでいた。


それだけだった。




俺は俯いた。


そして、笑った。


「……はっ」


何がおかしいのか、自分でも分からない。


ただ……


俺は、とんでもない馬鹿だった。


死んだ人間は、戻ってこない。


そんな当たり前のことを。


どうして今まで、ずっと信じていたんだろう。




一瞬、世界から、すべての音が消えた。


鳥の声もない。

風の音もない。


自分の呼吸さえ、聞こえなかった。




何かがおかしい。

そう気づくより先に、全身から力が抜けていった。




「……あ」


膝から崩れ落ちる。


咄嗟に手を伸ばした。

けれど、指先は何にも触れなかった。




視界が大きく傾く。


血溜まり。

シアの身体。

濡れた石畳。


それらすべてが、ゆっくりと黒に沈んでいく。




そのとき


遠くで、誰かが笑った気がした。


「ふふ……」


女の声だった。


……あの女か?


そう思った瞬間。


俺の意識は、完全に途切れた。

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