第25話 会えない
「――で、なんの話してたんだよ」
俺が声をかけると、エイナとルルは、ぴたりと口を閉じた。
中庭の隅、誰も来ないような場所で、二人はずっと何かを話し込んでいた。
「べつに。ただの世間話」
エイナは、いつも通りの軽い調子で、そう答えた。
「僕たちにも、積もる話くらいあるんだよ」
ルルも、慌てたように言葉を続けた。
「......そうかよ」
俺は、それ以上追及しなかった。
なんとなく、聞いても答えてくれない気がしたから。
でも――あのときの二人の横顔は、なんだか、いつもと違って見えた。
いつもの、じゃれ合うような空気じゃない。
もっと、静かで、真剣な。
そんな空気だった。
それきり、深く考えることはなかった。
その日の夜、エイナは、いつもより早く俺の部屋に来た。
「......今日は、何もしないのか」
「別に、たまにはいいでしょ」
エイナは、ベッドの端に腰掛けて、ただ、俺の顔を眺めていた。
長いこと、何も言わずに。
「......なんだよ、じっと見て」
「んーん。なんとなく」
「気持ち悪いな」
「失礼な」
エイナは、そう言って笑うと、俺の手を取った。
いつもみたいに、からかうためじゃなく。
ただ、指を絡めて、しばらく、そのままだった。
「あったかいね」
「......お前が触ってるんだから、当然だろ」
「うん」
それだけの、何気ないやり取りだった。
あのときは、まだ、何も気づいていなかった。
数日、いつも通りの日々が続いた。
ドロテアの作る硬いパン。
ロルフィの淹れる薬草茶。
エイナの軽口と、ルルとの言い合い。
何も変わらない、ただの毎日。
だからこそ――その朝、部屋にエイナの姿がなかったとき、俺は、大したことだとは思わなかった。
「......珍しいな」
そう呟いただけだった。
昼になっても、姿を見せなかった。
「......エイナ?」
呼びかけても、返事はない。
「ルル、いるか」
指輪に問いかけても、応えはなかった。
夕方になる頃には、さすがに、様子がおかしいと分かった。
「......ロルフィ、エイナ見なかったか」
「......ううん、見てない」
「ルルは?」
「それも」
胸の奥に、じわりと、冷たいものが広がっていく。
その日の夜、俺は、崩れた王府の中を、片っ端から探し回った。
厨房、書庫、応接間、崩れた回廊の隅々まで。
「......エイナ」
声を出すたび、自分の声が、やけに大きく響く気がした。
見つからない。
どこにも、いない。
まるで、最初からいなかったみたいに。
まさか――また、指輪の中に閉じ込められたのか?
そう思って、何度も指輪に呼びかけた。
「ルル、聞こえるか」
反応は、なかった。
朝になっても、二人は戻ってこなかった。
その次の日も。
......おかしい。
いくらなんでも、おかしい。
胸の奥で、何かが軋むような感覚があった。
うまく言えないけど――前にも、似たような感覚を、味わったことがある。
親父が、消えたときだ。
俺は、ドロテアの部屋に向かった。
「ドロテア。エイナとルル、どこにいるか知ってるか」
ドロテアは、人形を抱えたまま、俺を見上げた。
「......知らない」
「本当に、知らないのか」
「知らない」
その声には、いつも通りの平坦さしかなかった。
でも、その目が、ほんの一瞬だけ、俺から逸れた。
「......ドロテア」
「知らない、って言ってる」
三度目の「知らない」には、少しだけ、硬さが混じっていた。
......何か、知ってる。
正確には――知ってるというより、「感じてる」に近いのかもしれない。
「頼む」
俺は、頭を下げた。
「捜す方法、ないか。お前の人形、使えないか」
ドロテアは、しばらく黙っていた。
やがて、抱えていた人形を、そっと床に置いた。
「......一体、連れてって」
「いいのか」
「名前、つけてある子なら」
ドロテアは、部屋の隅にいた、白い髪の人形を指差した。
「その子。名前は――ミミ」
呼ばれた瞬間、人形の目が、かちりと開いた。
「......うわっ」
俺は、思わず後ずさった。
ミミと呼ばれた人形は、ゆっくりと立ち上がり、俺のほうを見た。
「......なんで、動くんだ」
「名前があるから」
ドロテアは、当たり前のように言った。
「名前があれば、核がある。核があれば、力がある」
「......そんな、単純な話なのか」
「単純だよ」
ドロテアは、ミミの頭を、そっと撫でた。
「私が動かしてる人形も、全部そう。名前をつけた瞬間、ただの人形じゃなくなる」
俺は、あの日、広場で戦った兵士たちを思い出した。
宙に浮いていた、あの人の形。
......あれも、そうだったのか。
「案内、できるか。エイナのところまで」
ドロテアが、ミミに尋ねた。
ミミは、こくりと頷いた。
そのまま、部屋の中央に進み出て、宙に手を伸ばす。
――ビシリ。
何もない空間に、亀裂が走った。
まるで、薄い硝子が、内側から罅割れていくような音。
亀裂は、少しずつ広がっていく。
輪でも、円でもない。
ただ、いびつに、歪に、空間そのものが破れていく。
その裂け目の向こうは、真っ黒だった。
「......これ」
「扉、というより――穴、だね」
ドロテアが、静かに言った。
「行くの?」
「行く」
俺は、迷わず答えた。
その、いびつな裂け目に、足を踏み入れる。
視界が、真っ暗になった。
一瞬、身体が、重さを失ったような感覚があって――
次の瞬間、俺は、見知らぬ場所に立っていた。
そこは、灰色の靄が立ち込める、広大な空間だった。
地面も、空も、境目が分からない。
遠く――途方もなく遠くに、何か、巨大な「気配」があった。
姿は見えない。
でも、そこにいるだけで、息が詰まりそうな、圧倒的な存在感。
......あれが。
天の魔王。
直感的に、そう分かった。
でも、今の俺には、それどころじゃなかった。
視線の先、少し離れた場所に、二つの人影があった。
一つは、エイナ。
もう一つは、いつもより少しだけ大きな姿になった、ルル。
二人の傍らには――
さっきの亀裂と同じ、いびつな裂け目があった。
でも、大きさが、まるで違う。
見上げるほど、大きい。
まるで、この世界そのものに入った、巨大な傷跡のようだった。
「......エイナ?」
俺が声をかけると、エイナが、ゆっくりとこちらを振り返った。
「......ルクラン」
驚いた声だった。
でも、それ以上に――困ったような、悲しそうな。
そんな声だった。
「なんで、こんなところに」
「それは、こっちの台詞だ」
俺は、二人に近づいた。
「お前ら、勝手にいなくなって。心配しただろうが」
「......ごめん」
「謝るくらいなら、最初から――」
「ルクラン」
エイナが、俺の言葉を遮った。
「もう少しだけ、聞いて」
その声は、いつもより、ずっと落ち着いていた。
まるで、ずっと前から、この瞬間のために、言葉を用意していたみたいに。
「私、ここから、行かなきゃいけないところがあるの」
「......どこにだよ」
「言えない」
「なんでだよ」
「言ったら、君、絶対止めるから」
エイナは、そう言って、小さく笑った。
いつもの、軽やかな笑み――のはずだった。
でも、その目の縁は、赤く滲んでいた。
「......いつ、戻ってくるんだよ」
俺が尋ねると、エイナは、少しだけ間を置いた。
「......分からない」
「分からないって」
「本当に、分からないの」
その一言に、頭の中が、冷たくなっていくのが分かった。
親父が消えたときと、同じだ。
「行かないほうがいい方法とか、ないのかよ」
「ない」
エイナは、はっきりと、そう言った。
「これは、私が、自分で決めたことだから」
俺は、何も言えなかった。
代わりに、彼女のほうへ、一歩、また一歩と、近づいていった。
「......ねえ、ルクラン」
エイナが、俺の頬に、そっと手を伸ばしてきた。
冷たい、細い指。
でも、確かに、体温のある指だった。
「これで、ちゃんと触れるようになったの、覚えてる?」
「......ああ」
「あのとき、すごく嬉しかったんだ」
エイナの声が、微かに震えていた。
「もっと、いろいろ、したかったんだけどな」
「......今からでも、できるだろ」
「できない」
きっぱりと、そう言われた。
「私、ルクランに、ずっと嘘ついてた」
「......知ってる」
「一つや二つじゃないよ」
エイナは、涙を拭いもせずに、笑おうとしていた。
でも、うまく笑えていなかった。
「今も、本当のこと、言ってあげられない」
「......いいよ、別に」
俺は、そう言うしかなかった。
「戻ってきたら、全部聞くから」
エイナは、それには答えなかった。
ただ、俺の頬から、そっと手を離す。
「ルル」
「......うん」
「あとは、頼んだよ」
「......うん」
ルルの声も、震えていた。
エイナは、一度だけ、大きく息を吸った。
そして、裂け目のほうへ、身体を向ける。
「さよなら、ルクラン」
その声は、震えていた。
でも、精一杯、いつも通りの調子を保とうとしているのが、分かった。
「また、騙しちゃったね」
「......おい」
「また会おうって、言おうとしたんだけど」
エイナは、そこで、一度、言葉を切った。
「......ううん。違う」
振り返った顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
なのに、口元だけは、無理やり、笑みの形を作っていた。
「もう、会えない」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の中で、何かが、真っ白になった。
考えるより先に、足が動いていた。
「......待てよ」
自分の声が、やけに遠くから聞こえた。
「待てって、言ってるだろ」
エイナは、答えなかった。
代わりに、懐から、何かを取り出した。
木製の、仮面だった。
不気味な笑みを浮かべた、その顔。
見た瞬間、頭の奥で、忘れかけていた記憶が、勝手に蘇った。
――あの夜。シアの前に立っていた、仮面の男。
同じ、仮面だった。
見間違えるはずがない。
エイナは、何も言わずに、その仮面を、自分の顔へと近づけていく。
「待てよ、エイナ!」
叫んでも、止まらなかった。
仮面が、彼女の顔を覆う。
表情が、消える。
その下にあったはずの、涙も、笑みも――全部、木の笑顔の下に隠れた。
頭の中で、いくつもの点が、一気に繋がっていく。
――もう、簡単には戻ってこられない。
――どこに行くのかは、言えない。
――いつ戻るのかも、分からない。
そして、今。
あの夜、シアを手にかけた仮面と、同じもの。
......まさか。
過去に、戻るのか。
信じられなかった。
でも、そうとしか、考えられなかった。
だったら――なんでだ。
なんで、そのために、あの夜を、やり直す必要があるんだ。
シアを殺したのは、こいつなのか。
だとしたら――なんで。
分からなかった。
考えても、考えても、分からなかった。
でも――一つだけ、確かなことがあった。
エイナは今、あの夜、シアを殺した男と、同じ場所に立っている。
それだけは、もう、疑いようがなかった。
「......おい」
俺は、思わず声を上げた。
でも、答えは、返ってこなかった。
仮面の奥から、彼女がどんな顔をしているのか、もう分からなかった。
エイナは、ただ、静かに、裂け目のほうへ、足を踏み出した。
「――エイナ」
俺は、手を伸ばした。
指先が、彼女の袖に、微かに触れた。
――気がした。
でも、次の瞬間には、もう、その感触も消えていた。
エイナの姿が、いびつな裂け目の向こうに、吸い込まれていく。
まるで、最初から、そこに繋がっていたみたいに、自然に。
跳ぶ、というより――帰っていく。
そんな動きだった。
――そのときだった。
頭上、はるか高い場所から、何かが、勢いよく落ちてきた。
人の形をした、それ。
一瞬で、視界を横切り――同じ裂け目の中へと、吸い込まれていく。
でも、俺は、それに気づく余裕なんて、なかった。
目の前が、それどころじゃなかったから。
裂け目は、ゆっくりと、音もなく閉じていった。
まるで、何事もなかったかのように。
俺は、伸ばした手を、そのまま、下ろせずにいた。
声も、出なかった。
涙も、まだ、出てこなかった。
ただ、頭の中が、真っ白なまま、時間だけが過ぎていく。
「......ルクラン」
ルルが、震える声で、俺の名前を呼んだ。
俺は、それに、答えられなかった。
ただ、閉じたばかりの空間を、じっと見つめていた。
さっきまで、確かに、そこにいたのに。
もう、どこにも、いない。
灰色の空間に、風の音だけが、いつまでも響いていた。
しばらくして、俺は、ようやく、地面に膝をついた。
「......ルル」
「......うん」
「知ってたんだろ、お前」
「......うん」
「口止めされてた、って言ってたよな」
「うん......ごめん」
俺は、それ以上、何も聞かなかった。
聞く気力が、もう、残っていなかった。
ただ、俺は、しばらくの間、そこに座り込んだまま、動けなかった。
どれくらい、そうしていただろう。
不意に、遠くの「気配」が、こちらに向いた気がした。
まるで、いつまでも居座る羽虫を、うっとうしく思うような。
そんな、冷めた視線。
「......っ」
その瞬間、身体が、ふわりと浮いた。
「ルクラン――」
ルルの声が、遠くなる。
視界が、光に呑まれていった。
気づいたときには、崩れた王府の一室、見慣れた天井が見えた。
「......戻された、のか」
隣を見ると、ルルも、床に座り込んでいた。
「......うん。たぶん、邪魔だったんだと思う」
ルルの声は、まだ震えていた。
俺は、何も言えないまま、天井を見上げ続けた。




