第23話 ふたつの心
朝、目が覚めると、身体はもうすっかり軽くなっていた。
「......生きてる」
自分でそう呟いて、少し笑ってしまった。
厨房に向かうと、テーブルの上に、皿が一枚だけ置かれていた。
硬いパンと、干し肉。昨日のよりは、ずいぶんマシに見える。
柱の陰から、小さな呟き声が聞こえてくる。
「......べつに、あいつのために焼いたわけじゃない。余っただけ」
「聞こえてるぞ、ドロテア」
「......っ、最悪」
慌てて走り去る足音。
俺は、久しぶりに、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
パンを齧っていると、ロルフィが厨房に入ってきた。
腰の小さな袋から、乾燥した葉を取り出して、水につけている。
「......それ、何してんだ」
「傷薬。念のため」
ロルフィは、そう言いながら、袋の紐をきゅっと結び直した。
こういう地味な作業は、昔からロルフィの担当だった。
薬草の見分け方も、包帯の巻き方も、ロルファより詳しい。
「......もう治ってるけどな、俺」
「分かってる。でも、念のため」
ロルフィは、少し困ったように笑って、袖口をきゅっと握った。
緊張したときの、こいつの癖だ。
「......大丈夫か?」
「......うん、ちょっと、疲れてるだけ」
そう言って、力なく笑う。
「先に、部屋戻るね」
「......ああ」
その背中を見送りながら、俺は、妙な胸騒ぎを覚えた。
うまく言えないけど――何かが、いつもと違う気がした。
* * *
――暗い。
ロルフィは、瞼を閉じたまま、そう思った。
ここは、いつもの場所だった。
輪郭のない、灰色の空間。
「......ロルファ」
呼びかけると、少し離れた場所に、もう一つの人影が浮かび上がる。
自分と同じ顔。同じ髪。
でも、纏う空気は、まるで違う。
「......なによ」
ロルファは、こちらに背を向けたまま、そう答えた。
その肩は、小さく震えていた。
「......タタのこと」
「言うな」
「ロルファ」
「私が――私が、あそこにいたから」
声が、震えて、途切れる。
「あんたのせいじゃない」
「じゃあ、誰のせいだよ!」
ロルファが、叫んだ。
「私が、もっと強かったら。もっと、うまく立ち回れてたら――」
「......ロルファ」
ロルフィは、静かに、でもはっきりと言った。
「私も、同じだよ」
「......は?」
「私だって、何もできなかった。あんたが必死に戦ってる間、私はずっと、ここで、見てることしかできなかった」
ロルファが、初めて、こちらを振り返った。
「あんたは、いつも、ちゃんとやってるじゃん」
「戦えないよ、私。剣も、まともに振れない」
ロルフィは、自分の手のひらを見つめた。
「できるのは、薬草を煮出すことと、傷の手当てくらい」
「......それも、大事なことでしょ」
「うん。でも――昨日、私は何もできなかった。あんたが戦って、タタが死んで、ルクランが切られて。私は、その後片付けをしただけ」
沈黙が、灰色の空間を満たした。
「......似た者同士か、私たち」
ロルファが、小さく笑った。
泣き笑いのような声だった。
「うん」
ロルフィも、頷いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて、ロルファが、ぽつりと呟いた。
「......これから、どうする」
「......うん」
「またあいつに遭遇したら」
ロルフィは、少し考えてから、口を開いた。
「......避けよう」
「え?」
「今の私たちじゃ、勝てない。それだけは、はっきりしてる」
「......でも」
「逃げるのは、負けることとは違うよ」
ロルフィは、静かに、でもはっきりとそう言った。
「もう一度、同じことが起きるほうが怖い」
ロルファは、しばらく黙っていた。
「......そうだね」
「うん」
「私も、それでいいと思う」
「じゃあ、決まりだね。あいつを見つけても、近づかない。逃げる。それでいい」
「......うん」
ロルファは、頷いた。
さっきよりも、少しだけ、声がしっかりしていた。
「......ロルフィ」
「なに」
「私、また、ルクランの傍にいてもいいのかな」
「当たり前でしょ」
ロルフィは、迷わずそう答えた。
「あんたがいなかったら、私、とっくに潰れてる」
ロルファは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく、しゃくり上げるような声が漏れた。
「......タタ、ちゃんと弔ってあげたい」
「......うん。今度、一緒にやろう」
「......うん」
灰色の空間に、小さな嗚咽だけが、しばらく響いていた。
* * *
「......ロルフィ?」
部屋の扉を叩くと、少し間があってから、返事があった。
「......うん、大丈夫」
くぐもった声。
「本当に?」
「......うん」
俺は、それ以上は聞かなかった。
ただ、扉の向こうから、微かに、鼻をすする音が聞こえた気がした。
「......何かあったら、呼べよ」
「......うん、ありがとう」
俺は、扉から離れた。
その内側で、何が起きているのか、俺には分からない。
でも、次に顔を合わせたとき、ロルフィの目は、少しだけすっきりしているように見えた。
気のせいかもしれないけど。
「......ルクラン」
昼過ぎ、ロルフィが、俺のところに来た。
「ん?」
「もし、また、あの浮いてた奴に会ったら」
その声には、迷いがなかった。
「戦わないで。逃げよう」
「......急にどうした」
「私たちじゃ、まだ勝てない。それだけは、分かるから」
俺は、少し驚いた。
でも――それは、たぶん正しい判断だった。
「......分かった。当分は、近づかない方向で行こう」
「うん」
ロルフィは、小さく頷いた。
その顔には、もう、朝の頼りなさはなかった。
厨房に戻ると、ドロテアが、人形を並べて何かしていた。
「......なあ、ドロテア」
「なに」
「あの日の敵、何だったか、分かるか」
ドロテアは、手を止めた。
「......見てたけど、確証はない」
「なんでもいい。気づいたこと、教えてくれ」
ドロテアは、しばらく黙っていた。
それから、抱えていた人形の関節を、指先でこきりと鳴らした。
「動き方」
「......え?」
「首の動かし方。関節の軋み方。あれ、人間の動きじゃない」
俺は、あの瞬間を思い出した。
油の切れた人形のように、ぎこちなく回った、あの首。
「......まさか」
「たぶん、人形だよ」
ドロテアは、あっさりとそう言った。
「私と、同じ」




