第19話 人形
結局、その日は親父を見つけられなかった。
「......もう日が暮れる」
ロルファが、崩れた回廊の窓から外を見て呟いた。
俺は溜め息をついて、壁にもたれかかった。
「厨房、生きてるかな」
「は?」
「腹減った」
俺は思わずロルファの顔を見た。
「お前、この状況でよくそんなこと考えられるな」
「逆に聞くけど、腹が減っても親父は見つからないよ?」
「......それはそう」
反論できず、俺は黙り込んだ。
結局、俺たちは崩れた厨房を漁ることになった。
幸い、火は落ちてなかったらしく、乾燥した保存食がいくつか棚の奥に残っていた。
「うわ、硬っ」
ロルファがパンを一つ齧って、顔をしかめる。
「石みたいだな」
「文句言うなら食うな」
「食うよ。腹減ってるもん」
俺たちは崩れた厨房の床に座り込み、しばらく無言でパンを齧った。
外はもう、藍色に染まりかけている。
「......なあ」
「ん?」
「明日も見つからなかったら、どうする」
ロルファは、パンを咀嚼しながら少し考えた。
「捜し続けるしかないでしょ」
「......だよな」
それ以外に、答えなんてなかった。
しばらくの沈黙の後、俺は思い出したように口を開いた。
「......あの部屋の子」
「ああ、人形の子」
「まだいると思うか」
「さあ。でも、逃げる理由もないだろうし」
ロルファは残りのパンを口に押し込みながら、俺を見た。
「気になるの?」
「......少し」
正直に言うと、それだけじゃなかった。
昼間、あの子の指が一瞬止まった瞬間――
フェルゼンの名前を出したときの、あの反応。
あれは、絶対に何かを知っている顔だった。
「もう一回、話しに行ってみる」
「私も行くよ」
「危なくないか?」
「危ないからこそ、一人で行かせられないでしょ」
ロルファは立ち上がり、服についたパン屑を払った。
俺たちは薄暗くなった廊下を、再びあの応接間へと向かった。
扉の前に立つと、中から微かな声が漏れてくる。
――お前は、リオ。
――お前は、レナ。
昼間と同じ、抑揚のない呟き。
俺はゆっくりと扉を開けた。
女の子は、昼間と全く同じ姿勢で床に座っていた。
まるで、俺たちがいなくなってからずっと、そのままでいたみたいに。
「......また来たのか」
俺が声をかけると、女の子はようやく顔を上げた。
赤い瞳が、俺を映す。
そして――
「......またなの、エイナ?」
「......は?」
俺は固まった。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
エイナ。
こいつは今、確かに――エイナ、と言った。
なんで、こいつがその名前を知ってる?
「......誰だよ、エイナって」
隣でロルファが、怪訝な顔をした。
「ルクラン、誰と話してるの」
「......え?」
「今、この子、誰もいないほうを見て喋ってなかった?」
俺は思わず自分の胸元を見た。
ロルファには、見えていない。
聞こえてもいない。
まるで――独り言でも聞いているような顔で、俺を見ている。
「......いや、なんでもない」
俺は誤魔化すしかなかった。
でも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
こいつは、俺の中にいるエイナのことを知っている。
しかも、まるで顔見知りみたいな口調で。
「......おい」
俺は女の子を睨みつけた。
「お前、エイナのこと――」
そこまで言いかけたとき。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
嫌な予感がした。
「......あ」
視界が、一瞬揺れる。
「――ちょっとだけ、貸してね」
甘ったるい声が、俺の口から零れた。
自分のものじゃない声。
でも、確かに俺の口から出ている。
「......?!」
「ルクラン?」
ロルファが驚いた顔で、俺を見た。
俺は――いや、俺の身体は、緩やかに笑みを浮かべていた。
「久しぶりだね、ドロテア」
俺の口が、勝手にそう紡いだ。
女の子――ドロテアと呼ばれた子は、初めて表情らしい表情を浮かべた。
わずかに、目を見開いて。
「......本当に、エイナなんだ」
「うん。中からこんにちは」
エイナの声は、いつも通り軽い。
まるで散歩の途中で知り合いに会ったみたいな、そんな気安さだった。
「......おい、勝手に喋るな」
俺は必死で身体を取り戻そうとした。
けれど、指先一つ動かせない。
『二つ目の約束、忘れた?』
頭の中で、エイナの声が響いた。
『私の核が望むことには、逆らわないこと』
『少しだけ、大人しくしてて』
「......っ」
俺は歯を食いしばった。
抵抗しても、無駄だと分かっていた。
「ねえ、ドロテア」
エイナは、俺の身体を使ってしゃがみ込んだ。
ドロテアと目線を合わせる形になる。
「お願いがあるんだけど」
「......なに」
ドロテアの声は、警戒するように低くなった。
「そこの人形、一体でいいから――私に貸してくれない?」
「......は?」
俺も、ロルファも、思わず同じ声を上げた。
エイナは気にせず続ける。
「私、そこに憑いて、実体化したいの」
「......意味わかんない」
ロルファが呆然と呟いた。
でも俺には、なんとなく分かってしまった。
こいつは――エイナは、ずっとこの半端な状態に飽きていたんだ。
俺の中に間借りしているだけの、実体のない魂。
もし人形に憑くことができたら――
こいつは、自分の身体を手に入れることになる。
「憑くだけなら、迷惑かけないよ。ちゃんと自分の身体を持ちたいだけ」
エイナは、俺の手を使って、床の人形の一つを指差した。
栗色の髪をした、小さな人形。
「これがいい。名前、もうつけた?」
「......まだ」
「じゃあ、ちょうどいいじゃん」
ドロテアは、しばらく黙って人形とエイナ――というか俺の顔を見比べていた。
その表情には、まだ強い警戒が残っている。
「......なんで、私がそんなこと聞かなきゃいけないの」
「そうだよねぇ」
エイナは、くすりと笑った。
その笑い方は、まるで最初から予想していたみたいだった。
「じゃあ、理由を教えてあげる」
俺の身体――エイナの纏う俺の顔から、笑みがすっと消える。
「私は、アヴィナを殺すから」
その名前が出た瞬間、ドロテアの肩が、微かに揺れた。
「......まだ、諦めてなかったんだ」
その声には、驚きが滲んでいた。
でも――それだけじゃない。
どこかで「やっぱり」と納得しているような、そんな響きも混ざっていた。
「当然でしょ」
エイナは、あっさりと答えた。
「私が、あの女を殺す以外の選択肢を選ぶとでも思った?」
「......思ってない。だから、驚いてない」
ドロテアは、小さく首を振った。
「ただ、意外だっただけ。あれから、もう――」
そこで言葉を止め、ドロテアは俯いた。
沈黙が、部屋を満たした。
ロルファは、状況についていけていないのか、俺とドロテアを交互に見ている。
俺自身、頭の中は疑問符だらけだった。
――こいつら、前から知り合いなのか?
――一体どういう関係なんだ?
聞きたいことは山ほどあった。
けれど、今の俺には、それを聞く声すら残っていなかった。
「......そのために、力が欲しいんだ」
長い沈黙の後、ドロテアがぽつりと呟いた。
「そう」
エイナは、あっさりと頷いた。
「実体があれば、できることが増えるからね」
「......魔王様には、内緒にしろってこと?」
「さあ、それはドロテアが決めることじゃない?」
エイナは肩をすくめた――俺の身体を使って。
その仕草すら、いつもの俺とは違う。
ドロテアは、しばらく人形を見下ろしていた。
やがて、小さく息を吐く。
「......一体だけ」
「うん」
「勝手なことしたら、すぐ壊す」
「厳しいなぁ」
エイナは楽しそうに笑った。
「でも、いいよ。それくらいの覚悟がなきゃ、始まらないもんね」
ドロテアは、栗色の髪の人形を持ち上げ、そっと床に置き直した。
まるで、儀式の準備をするみたいに。
「......ルクラン、いい?」
エイナが、不意に俺に向けて問いかけてきた。
「――いいわけ、ないだろ」
俺は、やっと絞り出せた声で答えた。
「そもそも、いつの間に俺の身体、勝手に使ってるんだよ」
「だって、頼んでたら間に合わなかったもん」
「......ふざけるな」
エイナはくすくすと笑い、それから――
ふっと、俺の視界が揺れた。
「......はい、返すね」
熱が、胸の奥に引いていく。
指先の感覚が、ゆっくりと戻ってきた。
「......っ、ぐ」
俺は膝をついた。
「ルクラン!」
ロルファが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫か!? 今の、なんだったんだよ!?」
「......分からない」
正直に言うしかなかった。
俺自身、まだ何が起きたのか、半分も理解できていない。
ただ一つ、確かなことがあった。
ドロテアは、床に置かれた人形を、じっと見つめている。
その目には、さっきまでの無表情とは違う――
微かな緊張が、浮かんでいた。
「......今日はもう、休んで」
ドロテアは、そう言うと、俺たちに背を向けた。
「続きは、明日話すから」
俺とロルファは、顔を見合わせた。
聞きたいことは、山ほどある。
でも、今夜はもう、限界だった。
俺たちは黙って部屋を出て、崩れた廊下を歩いた。
背後で、ドロテアの小さな声が聞こえた気がした。
――お前は、まだ名前、決めなくていいからね。
その声が、誰に向けられたものなのか。
俺には、分からなかった。




