第13話 二度の忘却
廊下は、思っていたよりもずっと長かった。
俺は倉庫の方向へ向かって、ひたすら走った。
冷たい床を踏みしめるたび、慌ただしい足音が響く。
タン。
タン。
タン。
自分の息遣いも、どんどん大きくなっていく。
「はぁ……はぁ……」
苦しい……疲れた……。
少し走っただけなのに、胸が苦しくなってきた。
別に、そんなに遠くまで走ったわけじゃない。
だけど、起きたことが多すぎる。
多すぎて、何から整理すればいいのか分からない。
エイナ。
あの葬式。
天の魔王。
それから――
天の指輪。
そう考えた瞬間、俺の足がふっと遅くなった。
「……ん?」
俺は俯いた。
どうしてかは分からない。
さっき走っているときから、指に冷たい感触があった。
……変だ。
俺は右手を持ち上げた。
そして――
動きを止めた。
手が、かすかに震えている。
一本の指輪が、俺の薬指に嵌まっていた。
「……」
頭の中が、一瞬で真っ白になった。
その指輪は、決して派手なものじゃない。
むしろ、どこにでもありそうなくらい普通だ。
だけど、俺はそれを知っている。
よく知っている。
「……天の指輪」
声が、喉の奥から無理やり押し出された。
次の瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。
俺は思わず、その場で足を止めた。
ダメだ。
どうして、ここにある?
俺は確かに――
ついさっきまで、これを見ていた。
ロルフィが持っていたはずだ。
まさか、こっそり俺の指に嵌めたのか?
いや、そんなはずない。
もしそうなら、俺が気づかないわけがない。
……待て。
ロルフィは……?
まさか……ロルフィに何かあったんじゃ……?
ダメだ、ダメだ。
早くロルフィを探さないと。
俺は反射的に指輪を外そうとした。
だけど、指輪に触れたところで、手が止まった。
ダメだ。
もし、本当にこれを外したら――
何が起こる?
俺にも分からない。
分からないからこそ、余計に怖い。
また教会に転送されるかもしれない……。
それどころか、もっと恐ろしいことが起こるかもしれない。
「……大丈夫」
俺は無理やり自分を落ち着かせた。
「今は、まだ大丈夫だ」
少なくとも――
まだ、あの教会には転送されていない。
周囲にも、何かおかしな変化が起きているわけじゃない。
だから、
「先にロルフィを探そう……」
「他のことは……後で考えればいい」
早くしないと、ロルフィが――
俺は大きく息を吸い込んだ。
そして、再び足を踏み出した。
ただ、今度は――
さっきよりも速く走った。
立ち止まってしまえば、指に嵌まったあの指輪が、また俺をあの教会へ連れ戻してしまう。
「ロルフィ……」
俺は拳を強く握りしめた。
「待ってろ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
俺は走り続けた。
振り返らない。
振り返るのも怖い。
耳に入ってくるのは、自分の足音と、どんどん荒くなっていく呼吸だけ。
タン、タン、タン。
「はぁ……はぁ……」
胸が痛い。
足にも力が入らなくなってきた。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
ロルフィは倉庫にいる。
彼女を見つければ、それでいい。
それだけで――
「薬指って、結婚指輪をするところだよね~♡」
「……!」
俺は思わず足を止めた。
あの声。
知っている。
一度しか聞いたことがなくても、忘れるはずがない。
「……司祭」
天の魔王。
あの教会にいた、あの狂人。
でも……なんで、あいつの声がここに……?
俺は振り返らなかった。
声がどこから聞こえてきたのか、確かめることすら怖かった。
ただ、前だけを睨みつける。
「黙れ」
歯を食いしばりながら、なんとか声を絞り出した。
声が少し震えている。
怖くて仕方がない。
それでも、もうあいつの声を聞きたくなかった。
「……」
あいつは何も言わなかった。
ただ、不快な笑い声だけが耳に残っている。
俺は拳を握りしめた。
あいつが何をするつもりなのかなんて、今はどうでもいい。
俺はロルフィを見つける。
それだけでいい……。
俺はもう一度、走り出した。
今度は、あの声のことすら考えなかった。
ただ、ひたすら前へ走る。
もっと先へ。
そして――
ようやく、倉庫の扉が見えた。
「ロルフィ……!」
俺はほとんど扉に体当たりするようにして、中へ飛び込んだ。
「ルクラン?」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
ロルフィが倉庫の中に立っていた。
俺の姿を見た瞬間、明らかに驚いた顔をする。
「ルクラン!」
次の瞬間、彼女が俺のところへ駆け寄ってきた。
「大丈夫!?」
「……」
俺が答えるより先に、彼女は俺をぎゅっと抱きしめた。
「どこに行ってたの……ずっと待ってたんだよ」
「……ロルフィ」
俺は一瞬、何もできなかった。
胸の奥でずっと張り詰めていたものが、ふっとほどけたような気がした。
そして、今まで押し込めていたものが、一気に溢れ出した。
「……うっ」
俺も彼女を抱きしめた。
「ロルフィ……」
涙が、ぽろぽろとこぼれた。
さっきまで、泣いちゃいけないってずっと思っていた。
でも今は、どうしても止められなかった。
「俺……」
声が喉につかえる。
その先が出てこない。
俺は、いったい何を怖がっていたんだ?
父さん。
ロルフィ。
それから――
もう失ってしまった人たち。
俺はただ……
もう誰も失いたくない。
「よしよし……」
ロルフィが優しく背中を撫でてくれる。
「私はここにいるよ」
「……うん」
俺は彼女の肩に顔を埋めた。
涙を拭いても、なかなか止まらない。
しばらくして、ようやく少しずつ落ち着いてきた。
「……ごめん」
俺は彼女から離れ、俯きながら目元を拭った。
「なんで謝るの?」
「……なんでもない」
鼻をすすった。
今になって考えると、やっぱり少し恥ずかしい。
ロルフィの前で、こんなに泣いてしまった。
「そうだ」
ふと思い出した。
「ロルフィ、あの指輪は?」
「指輪?」
彼女はぱちぱちと瞬きをした。
「何の指輪?」
「それ……」
俺は右手を持ち上げた。
天の指輪は、相変わらず俺の薬指に嵌まっている。
「これ」
ロルフィは俺の視線を追って、指輪を見た。
「……?」
ますます不思議そうな顔をする。
「これ、何?」
「……」
俺は固まった。
「知らないの?」
「知らない」
彼女は首を横に振った。
「なんで私が知ってるの?」
「でも……」
俺は彼女を見つめた。
頭の中が、一気に混乱する。
違う。
確か、前は――
ロルフィは、この指輪を俺にずっと自慢していたはずだ。
よく覚えている。
確かに、彼女が持っていた。
なのに今は、この指輪が何なのかすら知らない。
「……あ……?」
思わず、小さな声が漏れた。
「何?」
「なんでもない」
俺は手に嵌まった指輪を見つめた。
また、忘れたんだ。
また……忘れた。
俺は思わず、ため息をついた。
「ロルフィ、お前……もう二回も記憶を失ってないか?」
「……え?」
彼女は首を傾げた。
「私が?」
「……」
俺は彼女を見つめた。
やっぱり。
まただ。




