第6話:泥濘(ぬかるみ)の生還
金属バットが空気を切り裂く。
反射的に身をよじり、僕は椅子ごと畳の上に転げ落ちた。
鈍い音がして、モニターの端が砕け散る。
火花が散り、部屋を照らしていた唯一の光が、不気味に明滅を始めた。
「……あはっ、逃げんじゃねぇよ、朝霞! お前、ネットじゃあんなに威勢よく俺をハメてくれたのになぁ!!」
剛田の顔は、明滅する光の中で、悪鬼のように歪んでいた。
「待て……っ、剛田! 警察……もう呼んでるから……っ」
嘘だ。スマホを手に取る暇なんてなかった。
震える声で吐き出した虚勢を、剛田は鼻で笑い飛ばした。
「呼べよ! 警察が来る前に、そのツラを二度と外歩けねぇようにしてやるからよ!! 俺の百万、どうした!? どこに隠した!!」
剛田がバットを突きつける。
あいつはまだ、金が「消えた」ことが信じられないんだ。
自分が誰よりも大切にしていた「金」という力の象徴が、僕のようなゴミに一瞬で無価値にされたことが、何よりも許せないんだ。
「……金なら、もう一円も残ってないよ。お前がいつもバカにしてた、弱者やゴミ溜めみたいな場所に全部バラまいてやったんだ」
僕は、床を這いながら、かろうじてデスクの影に隠れた。
右手が、偶然、机から落ちたWebカメラのコードに触れた。
「……バラまいた……? 俺の、俺の血肉を……あんな連中のために使いやがったのか……っ!!」
剛田の理性が、完全に切れた。
自分にとって命より重い金が、自分が最も見下していた連中のために「無駄遣い」された。その屈辱が、殺意を爆発させる。
バットが再び振り上げられる。
僕は、死に物狂いでWebカメラのレンズを剛田に向け、喉を振り絞った。
「……殺せよ!! 剛田!! でもな、お前がここで僕を殺したら、お前の『成功者』っていう嘘は、一生、ただの『殺人犯』としてネットの底に残るんだよ!!」
剛田の動きが、一瞬だけ止まる。
「……は?」
「Webカメラだよ……。お前がドアを蹴破った時から、全部『裏の配信サイト』に流してる。お前の顔、お前の声、バットを持って暴れてるその醜い姿……! 今この瞬間も、何百人、何千人が、お前の『正体』を見てるんだよ!!」
これも嘘だ。カメラの電源すら入っていない。
でも、あいつが一番恐れているのは「負け犬として晒されること」だ。
「嘘だ……、ハッタリこいてんじゃねぇ……!」
剛田の視線が、チカチカと明滅するモニターと、僕が握っているカメラのレンズへ向く。
僕はその隙を見逃さなかった。
「……ああ、ハッタリだと思うなら殴ればいい。でも、お前には確かめる術がないだろ? お前の『信用』はもうゼロなんだ。誰がお前を信じる?」
僕は、カメラをまるで武器であるかのように、震える手で剛田に向け続けた。
「……見ろよ。これが、みんなに憧れられてた剛田猛の、本当の姿だ!!」
剛田は、顔を引き攣らせ、バットを構えたまま立ち尽くした。
嘘か、真実か。
疑心暗鬼が、暴力という一方的な支配を、わずかに揺らした。
-----
「……っそ、クソが!!」
剛田は、思い切りバットを床に叩きつけた。
朝霞の言っていることが嘘だとしても、リスクが大きすぎる。
もし本当に、この無様な姿が世界中に晒されていたら。
もし、警察が本当に向かっていたら。
成功への執着。それが、皮肉にも剛田の足を止めた。
「……覚えてろよ、朝霞。お前、マジで殺すからな。絶対に、絶対に逃がさねぇぞ……!!」
剛田は、吐き捨てるように言い残すと、ひしゃげたドアを蹴破り、夜の闇へと消えていった。
-----
足音が聞こえなくなるまで、僕は息を止めていた。
やがて、遠くで車のエンジン音が響き、消えていく。
「……あ、あは……っ」
張り詰めていた糸が切れ、僕はその場に崩れ落ちた。
カメラを握りしめた手は、止まることなく震えている。
勝ったわけじゃない。
ただ、死ぬほど情けないハッタリで、一晩の命を繋いだだけだ。
でも。
壊れたモニターの端に、剛田の振り回したバットの跡が刻まれているのを見て、僕は確信した。
「……次は、逃がさない」
僕は、壊れかけのPCに向き直った。
211円の男と、獣に堕ちた男。
本当の戦争は、ここからだ。




