第7話:逃亡と再編
心臓の音が、耳のすぐそばで鳴っているようだった。
剛田が去ってから数十分。僕は震える手で、最低限の荷物をバックパックに詰め込んだ。
ノートPC、外付けハードディスク、充電器。
そして、211円しかなかったはずの口座残高が、今は数万円に増えたキャッシュカード。
剛田の口座を書き換えた際、あいつが気づかない程度の端数を、海外のミキシングサービスを経由させて自分の口座へチャージしておいた。
あいつから奪った金で、あいつから逃げるための電車賃を払う。
皮肉な充足感が、指先の震えを少しだけ止めてくれた。
「……行かなきゃ」
ひしゃげたドアを抜け、夜の冷たい空気の中に飛び出す。
朝霞の街は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
特定屋に売られ、剛田にドアを蹴破られたこの部屋は、もう僕を護る城じゃない。
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「クソが……っ、クソが!!」
剛田は、夜道を走るレンタカーのハンドルを拳で叩きつけた。
あと一歩だった。あのバットを振り下ろして、あのアホ面をぐちゃぐちゃにしていれば、すべてが片付いていたんだ。
なのに、あいつの「配信している」という見え透いたハッタリに、一瞬でも身体が竦んでしまった。
ハッタリだろうが真実だろうが、構わず殴り殺せばよかったんだ。
理屈じゃない。あんな底辺のゴミを前にして、無意識に「リスク」を計算し、保身に走ってしまった自分自身の弱さが、剛田には何よりも耐え難い屈辱だった。
「……朝霞。あんな汚ねぇオモチャ、昔から俺が飽きるまで弄んで捨てるだけの存在だったはずだろ」
剛田は路肩に車を止め、暗い車内でスマホを取り出した。
特定屋に、たった今判明した名前を叩きつける。
『朝霞 結だ。このアパートに住んでるこいつの現状、交友関係、弱み、全部洗い直せ。今すぐだ』
数分後、送られてきた追加資料を剛田は睨みつけた。
高校中退、無職、親とは疎遠。
「ハッ、何がハッカーだ。ただの社会のハミ出し者が、偶然ネットの隙間を見つけただけじゃねぇか」
剛田の口角が、醜く歪んだ。
暴力で仕留め損ねたのなら、もっと「あいつらしい」方法で潰してやればいい。
自分という「飼い主」に逆らったオモチャには、相応の絶望が必要だ。
「……美咲に連絡を取ってみるか」
剛田は、連絡先リストに眠っていた一人の女の名前に指を止めた。
高校時代、朝霞が密かに想いを寄せ、そして剛田が「朝霞を壊すため」の道具として使い潰した女。
あいつを物理的に殺すのはいつでもできる。
だがその前に、あいつが必死に守ろうとしている「ちっぽけな自尊心」を、もう一度徹底的に踏みにじってやる。
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新宿の、煙たいネットカフェの一室。
僕は持ち込んだノートPCを開き、再び暗闇の海へと潜った。
剛田の新しいアカウントを監視する。
あいつはまだ動いている。あいつの「虚栄心」という燃料は、僕が思っていたよりもずっともしぶとい。
だが、僕も変わった。
壊れたモニター。ひしゃげたドア。
あの日、バットが振り下ろされる瞬間の恐怖は、僕の中で冷徹な「殺意」に変わっていた。
「……次に来る時は、画面越しじゃない。お前の人生そのものを、跡形もなく消してやる」
僕は、剛田の背後にいる「協力者」たちのログを追い始めた。
あいつを支えている細い糸を、一本ずつ、確実に切っていくために。
その時、僕の古いメールアドレスに、一通の通知が届いた。
差出人は――『美咲』。
数年間、一度も届くことのなかった、呪いのような名前。




