第5話:蛇の執念
深い眠りだった。
あの日以来、初めて、泥のように深く、心地よい眠りに落ちていた。
211円の残高に怯えていた夜も、冷えた水道水で空腹を紛らわしていた夜も、僕の神経は常に張り詰めていたから。
モニターの青白い光が、暗い部屋をうっすらと照らしている。
画面には、あいつが阿鼻叫喚に包まれていたあの夜のログが、勝利の証として残ったままだ。
僕は布団の中で、小さく息を吐いた。
……終わったんだ。
あいつは僕の正体なんて一生気づかない。別の誰かを疑いながら、勝手に自滅していくんだ。
その時だった。
階下の、あの聞き慣れた古い階段が、ギシ……と悲鳴を上げた。
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剛田は、安物のレンタカーの運転席で、充血した目をこすった。
数日間、地獄のような時間を過ごした。
「特定屋」に積んだ金の結果は、意外なほど早く返ってきた。
発信元のIPアドレス、プロバイダの契約情報。そこから導き出された住所は、自分が「勝ち組」として脱出したはずの、あの忌々しい地元の、掃き溜めのようなボロアパートの一角だった。
「……この街かよ。どこのどいつだ。俺をコケにした報い、たっぷり受けさせてやる」
剛田の顔には、もはや「成功者」の面影はない。
無精髭が伸び、服は汚れ、ただ復讐心だけで動く「獣」の顔だ。
彼は後部座席に置いた、重みのある金属バットを掴んだ。
ハッキングだの、SNSの炎上だの、そんな小賢しい真似、リアルな暴力の前では何の意味も持たない。
「……俺の人生を、俺の金を……返せよ!!」
剛田は車を降り、夜の静寂に紛れて、ターゲットの部屋へと歩き出す。
見覚えのある、ひび割れたアスファルト。錆び付いた手すり。
こんな地元の中のさらに底辺に住んでいる奴が、俺の百万を消したのか?
剛田は、目的の部屋の前に立った。
震える手で大きく息を吸い込み、思い切りドアに足を叩きつけた。
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凄まじい衝撃音が、狭い四畳半に響き渡った。
「……なっ!?」
飛び起きた僕の目に飛び込んできたのは、ひしゃげたドアの隙間から滑り込んでくる、一振りの金属バットだった。
「おい……っ、出てこいよ、ハッカー様よぉ!!」
聞き間違えるはずのない、あの濁った声。
心臓が口から飛び出しそうになる。
なんで、どうして。あいつがここを?
二度目の蹴りで、安物のドアは完全に沈黙した。
外からの光を背に、一人の男が部屋に踏み込んでくる。
逆光で顔は見えない。
だが、その男がバットを引きずりながら、モニターの光に浮かび上がる僕の顔を覗き込んだ瞬間。
男の動きが、凍りついた。
「……は? お前……」
剛田の顔が、怒りから、信じられないものを見たという驚愕へと変わる。
「朝霞……? なんで、お前がここに……っ!?」
剛田の口から漏れたのは、純粋な混乱だった。
あいつにとっての「朝霞 結」は、数年前に「詰んだ」はずの、名前すら忘れかけていたゴミ。
そんなゴミが、自分の城を粉々に砕いた。
その事実が、剛田のプライドを、怒りよりも先に困惑させた。
だが、その困惑は一瞬で、これまで以上の激しい殺意に上書きされた。
「……あははっ! そうかよ、朝霞! お前だったのかよ……っ! あの時のカスが、一丁前に指動かして俺をハメたのか!!」
剛田がバットを大きく振り上げる。
僕は動けなかった。
ハッキングの知識も、SNSの拡散力も、目の前の鉄の塊を止める役には立たない。
策なんて何もない。
「勝った」と思って眠りについていた自分の浅はかさを呪いながら、僕はただ、迫り来る死の予感に全身を震わせることしかできなかった。
「……待て、剛田。話を聞け……っ」
僕の声は情けなく震え、狭い部屋に虚しく消えた。
バットが空を切る音が、鼓膜に突き刺さる。




