あるいは、まどろむ知性
化かす女と化かされる男?あるいはその逆?
大人の男女の国をかけた恋物語、大人な皆さんに楽しんでいただけることを願っています!
アレクサンドリアの朝食の席は、静かな戦場だった。
テラスを囲む列柱の影、あるいは給仕が捧げ持つ銀の盆の反射の中に、弟王派の密偵たちが潜んでいることを、クレオパトラは皮膚の震えで感じ取っていた。彼らは、昨夜絨毯に包まれて消えた王女が、いかにしてローマの巨人を籠絡したのか、その「証拠」を、死に物狂いで記録しようとしている。
(……見なさい。記録しなさい。貴方たちが今見ているのは、貴方たちの世界を終わらせる光景よ)
クレオパトラは、給仕が注ぐ深紅のワインを見つめていた。揺れる液体は、ナイルに沈む夕日のようでもあり、これから流れるであろう誰かの鮮血のようでもある。彼女の眼差しは、まるでエジプトの命運を占う神官のように真剣で、冷徹だった。
だが、彼女が意識的に作り上げているその「女王」の輪郭は、隣に座る男の存在によって、じわじわと侵食されていた。
彼女は、淀みのない所作で、カエサルの皿に熟れた無花果を添えた。
「閣下、この果実の甘さは、ナイルが私たちに与えてくれた最高の贈り物ですわ」
テラスの端まで届くほどに明瞭で、優雅な声。
「……そして、この実を平和に味わえる日々こそが、私が貴方に求めているもの。エジプトの安寧こそが、私の唯一の願いなのです」
完璧な「政治的メッセージ」だ。周囲の密偵たちには、彼女が自国のためにカエサルに哀願しているように聞こえるだろう。カエサルにとっては、昨夜の「穀物供給」の契約を確認する合図に聞こえるはずだ。
けれど、無花果を差し出す彼女の指先が、カエサルの掌に微かに触れた、その瞬間――。 彼女の思考が、一瞬だけ白く飛んだ。
(……熱い)
昨夜、自分を包み込んだあの赤い外套と同じ、残酷なまでの体温。 皮膚と皮膚が触れ合った場所から、微弱な電撃のような痺れが走り、脳髄を直撃する。 彼女の唇は、理路整然と「エジプトの未来」を語る準備を整えているのに、喉の奥では、全く別の、熱く湿った甘ったるい吐息が、逃げ場を求めて渦巻いていた。
(これは演技よ。私は彼を酔わせるために、自分を酔わせているだけ。……そうよね?)
自問自答は、霧の中に消える。彼女は、自分の「あざとい演技」が、実は自分自身の「渇望」を隠すための隠れ蓑になり始めていることに、まだ気づいていないフリを続けていた。
カエサルは、彼女が差し出した無花果を指で摘み、口へと運んだ。
ゆっくりと咀嚼し、その甘さを確かめるように喉を鳴らす。 彼の視線は、皿の上にも、テラスの景色にも向いていない。ただ、クレオパトラの瞳の奥、理性が必死に防波堤を築き、決壊を食い止めようとしているその「綻び」の一点だけを、執拗に射抜いていた。
「……確かに、甘いな」
カエサルの声は、低く、どこか愉しげだった。
「だが、甘すぎる果実は、時に毒を隠すのに最適だということも、私は知っているよ。……お嬢さん」
その一言が、彼女の胸の奥で爆ぜた。 心臓が不規則なビートを刻み、耳元で血流の音がうるさく鳴り響く。
見抜かれた、という恐怖。 もっと見抜いてほしい、という、名前のつかない、甘美で絶望的な希求。 それらが混ざり合い、彼女の「女王」としての仮面を内側から焼き切っていく。
彼女は、もはや自分が何者としてここに座っているのか、分からなくなっていた。 エジプトを守るための装置なのか。それとも、この老練な英雄の腕の中で、ただ溶けて消えたいだけの、熱に浮かされた女なのか。
逃げ場を失った知性が、最後の「攻勢」を命じる。
クレオパトラは、椅子をカエサルの方へわずかに寄せた。 周囲の耳を警戒するように、けれど愛し合う恋人が睦言を交わすような親密さで、彼の耳元へと唇を寄せる。
「閣下……。この宮殿の空気は、少々重苦しすぎて、私の肌には毒が過ぎますわ」
囁く声が、カエサルの耳朶を熱く濡らす。
「どうか、私を連れ出してくださらない? ……大王が眠る、あの静寂の聖域へ」
カエサルの肩が、微かに強張る。
「大王の魂の前で、貴方の隣に立たせてほしいのです。……それが、今の私にできる、精一杯の『愛の証明』ですもの」
その言葉の裏側にある「政治的計算」を、カエサルが一瞬で察知したのを、彼女は肌で感じた。 大王の墓への参拝。それは、彼女が「正統なるファラオ」であることを市民に知らしめるデモンストレーションだ。カエサルがそれに同行すれば、ローマは正式にクレオパトラを支持したと世界中に宣言することになる。
街に出れば、弟王派の暗殺者が矢を構えているだろう。それは世界の支配者にとって、あまりにリスクの高い「散歩」だった。
(さあ、どうするの、カエサル。貴方は理性で私を拒む? それとも、私の毒を飲み干す?)
カエサルは、彼女の蕩けた瞳を見つめ返した。 その瞳の奥にある、自分自身を騙しきれていない「揺らぎ」を。 彼は自嘲気味に口角を上げた。 理性が「罠だ」と叫んでいる。だが、この少女が放つ、嘘と真実が混濁した得体の知れない熱量が、彼の冒険心を、若き日のような無謀な渇望を、呼び覚ましていく。
「大王の前で私を試そうというのか。……いいだろう、お嬢さん」
カエサルは、彼女の腰に手を回した。 その掌の強引な熱さが、彼女の思考を再び白く染め上げる。
「君のその『愛の証明』とやら、世界で最も危険な散歩になりそうだが……。冥府への旅路になるとしても、付き合ってやるとしよう」
二人の視線が交差する。 そこにあるのは、もはや愛でも、忠誠でもなかった。 自ら仕掛けた「演技」という炎に巻かれ、どちらが先に灰になるかを競うような、あまりに贅沢で、狂おしい微睡みの時間だった。
テラスの外では、砂時計の砂が無情に落ち続けている。 だが、二人の間では、時間はとろりと溶け、現実と虚構が混じり合う黄金の泥の中に、沈み込んでいった。
化かす女と化かされる男?あるいはその逆?
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