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あるいは、完璧な仮面

 アレクサンドリアの朝は、残酷なまでに鮮やかだった。 大理石のテラスには、目が眩むような地中海の太陽が降り注ぎ、空気はナイルの湿り気を含んで重たく、甘い。テラスの円卓を囲むのは、エジプトの弟王プトレマイオス13世と、その背後で毒蛇のように目を光らせる側近たち。彼らは一様に緊張した面持ちで、昨夜からこの宮殿の主導権を握った「ローマの執政官」の登場を待っていた。


 やがて、重厚な足音が回廊に響く。 現れたカエサルは、磨き上げられた胸当てと真紅の外套に身を包み、非のうちどころのないローマの英雄の姿をしていた。だが、至近距離で見れば、その鋭い目元には隠しきれない疲労の影が刻まれている。 昨夜の「空白」という名の拷問――自分を拒絶した沈黙の夜が、百戦錬磨の彼の精神を、どんな激戦よりも深く削り取っていた。


 カエサルは不機嫌そうに、用意された豪奢な椅子に腰を下ろした。挨拶をしようと立ち上がったプトレマイオスを一瞥もせず、ただ視線を虚空へと向ける。その立ち居振る舞いからは、「余計な口を利けば、この宮殿を血の海にする」という刺々しいまでの殺気が立ち上っていた。


 その時、テラスの空気が一変した。


「……おはようございます、閣下」


 絹が擦れる、微かで涼やかな音。 現れたクレオパトラを見て、テラスにいた全員が息を呑んだ。 昨夜、絨毯から這い出た時の埃にまみれた姿でも、昨日回廊で泣き崩れていた脆い少女の姿でもない。


 彼女は、エジプト王家が神事に纏う、極薄のリネンに黄金の刺繍を施した正装を身に宿していた。太陽の光を背負って歩くその姿は、神話から抜け出したイシス女神のように、神秘的で、眩い。


 だが、最も周囲を、そして何よりカエサルを驚愕させたのは、その「表情」だった。


 彼女は、自分を睨みつける弟王や側近たちの存在など、石ころほどにも気にかけていないようだった。真っ直ぐに、吸い寄せられるようにカエサルの元へ歩み寄ると、衆人環視の中で、あまりに自然な、そしてあまりに献身的な仕草で彼の足元に跪いたのだ。


 そして、カエサルの逞しい膝に、そっと自らの柔らかな頬を寄せ、彼を見上げた。

 その瞳は、昨夜の涙の余韻を残したようにとろりと潤んでいる。 そこには知性による計算も、女王としての野心も、一切の濁りさえも見当たらない。ただ、最愛の夫を、あるいは神を見上げる狂信的な信者のように、無防備な陶酔に蕩けていた。


「昨夜は、よく眠れまして……? 私は……」


 彼女は、吐息を漏らすように囁いた。


「……貴方の腕の中の温もりが、どうしても忘れられず。朝が来るのがこれほど待ち遠しいと思ったことは、ございませんでしたわ」


 鈴を転がすような、甘美な声。 それは、カエサルが昨夜、彼女を追い詰めた際に命じた「理想の愛人の表情」そのものだった。


 カエサルは、自らの呼吸が止まるのを感じた。 彼の冷徹な理性が、脳内で激しく警鐘を鳴らし、叫び声を上げる。


(――待て。これは演技だ。昨夜、私をあざ笑ったあの『脳髄』が書いた、完璧な復讐の脚本だ!) そう、これは昨夜の意地悪なオーダーに対する、彼女なりの痛烈な回答なのだ。 「蕩けた顔を見せろと言いましたね。ならば見せてあげましょう、貴方が二度と正気に戻れなくなるほどの夢を」と。)


 だが。 目の前で自分を、それこそ魂ごと捧げるような目で見つめる彼女の瞳には、一点の曇りもない。 見上げた頬は、彼の体温を感じてか、あるいは昨夜の記憶に火照ってか、桃色に紅潮している。 膝に触れる彼女の掌の温度は、疑いようもなく「恋する女」の、あの生々しい熱量を持っていた。


(……馬鹿な。これほどの演技が、人間に可能なのか?)


 カエサルの武骨な指先が、彼女の黒髪に触れようとして、微かに、情けないほどに震えた。 世界を征服した彼でさえ、彼女が差し出した「完璧な虚構」のあまりの完成度に、自分自身の現実感覚が、足元から崩れ去っていくのを感じていた。


 周囲の臣下たちは、その様子を見てゴクリと唾を呑み込んだ。 自分たちの王を追い出したあの冷酷なローマ人が、今、目の前で骨抜きにされている。その事実に、彼らは恐怖と、同時にどうしようもない戦慄を覚えていた。


 カエサルは、膝に頬を寄せるクレオパトラを見下ろした。 その瞳は、強烈な陽光を反射して琥珀色に輝き、これ以上なく甘く、陶酔に満ちている。 側近たちの視線。弟王の困惑。そんなものは、この二人の間にある粘度の高い沈黙の中では、何の価値も持たなかった。


 カエサルは、彼女の滑らかな頬をなぞる指先に、全神経を集中させた。 筋肉の微かな痙攣はないか。瞳孔の動きに不自然さはないか。 だが――。


(……指が、震えていない。呼吸も、まばたきも、すべてが『愛』そのものだ。だが、だが――!)


 彼の脳裏には、昨夜の執務室での、あの氷のような交渉がフラッシュバックする。


『明日から私は、貴方の愛人として生きる』 そう言い切り、自らの名誉を殺してまで目的を果たそうとした、あの剥き出しの、おぞましいまでの野心。


「……よくやった、お嬢さん」


 ようやく絞り出したカエサルの声は、自分でも驚くほど平坦で、慈悲深かった。 彼は彼女を強引に抱き寄せることも、その唇を奪うこともしなかった。 ただ、まるで愛おしい、けれど正体の知れない愛玩動物の毛並みを整えるかのように、彼女の耳元の髪を一筋、ゆっくりと指先で巻き取った。


「一晩で、これほどまでの『誠実さ』を身につけるとはな。……エジプトの教育というのは、ローマのそれよりも遥かに合理的で、恐ろしい」


 その言葉は、最上級の賞賛のようでありながら、喉元に突きつけられた鋭利な刃のようでもあった。 彼は、彼女の「蕩けた顔」を正面から受け止めながら、その肉の皮一枚隔てた裏側にあるはずの「冷徹な脚本」を、必死に暴こうとしている。 けれど、彼女の瞳には、何の綻びも見当たらない。


「閣下……? もしかして、お気に召しませんでしたの?」


 彼女が小首を傾げ、さらに「あざとい」潤みを瞳に湛える。 カエサルの心拍数が、また一段と跳ね上がった。 心臓が肋骨を叩く音が、自分自身にだけはっきりと聞こえる。


(認めよう。……今の私には、これが嘘か真かを見分ける術はない)


 カエサルは自嘲気味に、けれど深い悦びを伴ってそう確信した。 彼は、負けを認めたわけではない。 ただ、「どちらに賭けても、地獄に落ちる」という抗いがたい事実を、狂おしい愉悦と共に受け入れたのだ。


 もしこれが演技なら、彼女は世界を騙し抜く魔女だ。 もしこれが本物なら、自分は神に選ばれた男だ。

どちらであっても、この甘美な毒を飲み干す以外の道は、彼には残されていなかった。


「いいや、最高だ。……生涯、その顔を私に見せ続けるがいい」


 カエサルの声が、重く、宣言するように響く。


「それが演技であるなら、死ぬまで演じ通せ。私の目を、一瞬たりとも現実に戻させるな。……もし、これが本物であるなら、私に殺されるまでそのままでいろ。いいな」


 カエサルは、彼女の額に、儀式のような冷たい接吻を一つだけ落とした。 それは愛の誓いでも、情熱の証でもない。 「どちらが先に正気を失い、この『真実のような嘘』の深淵に沈むか」という、終わりのないチェスの再開を告げる、非情な合図だった。


 クレオパトラは額に残る冷たい感触を愛しむように目を閉じ、カエサルの膝の上で、満足げな猫のように微笑んだ。 テラスを包む黄金の陽光は、二人の「共犯者」を祝福するように、ただ静かに降り注いでいた。


この勝負、どっちが勝つのでしょか…そして勝利条件はなんなんだ!

史実では、文字通り「すべてをなげうって」クレオパトラに味方をしたジュリアス・シーザーの真実とは…


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