支配者の孤独な夜
重厚なオークの扉を閉め、閂をかけた瞬間、カエサルの鉄の仮面が剥がれ落ちた。 彼は荒い呼吸を整えようと、執務机に両手をつき、肩を大きく上下させた。
「……何という、ザマだ」
自嘲の声が、誰もいない部屋に虚しく響く。 ガリアの蛮族数万を相手にしても、元老院の老獪な舌鋒に晒されても、彼の心拍数は常に氷のように冷たく一定だった。
それがどうだ。たった一人の小娘の、演技だと分かっている涙を見せつけられただけで、心臓が早鐘を打ち、逃げるようにこの部屋へ戻ってきたとは。
静寂が訪れるはずの寝室には、皮肉にも、彼女の存在が濃厚に居座っていた。 空気の粒子一つひとつに、彼女の残り香――甘く、どこかスパイシーで冷たい、聖なる香油「キフィ」の香りが充満しているのだ。
彼は、椅子に乱暴に投げ出された真紅の外套に目をやった。 昨夜、絨毯から出てきた震える彼女に貸し与え、そして先ほどまで彼女の細い体を包んでいたものだ。 彼は何かに憑かれたように、その羊毛の生地を掴み上げ、鼻を近づけた。 そこには、キフィの香りと共に、彼女の生々しい体温と、あの回廊で見せた「あざとい雫」の湿り気が、確かな痕跡として残っていた。
(……馬鹿げている。あんな子供の小細工に、この私が翻弄されるなど)
カエサルは外套を再び放り出し、眉間を揉んだ。 あれは演技だ。間違いなく演技だ。
「もっと蕩けた顔を見せろ」と命じたのは私だ。彼女はその命令に、完璧以上の演技力で応えたに過ぎない。 あの涙も、震える肩も、すべてはエジプトを取り戻すための計算高い演出だ。彼女自身がそう言ったではないか。「私の脳髄で貴方を酔わせる」と。
彼は目を閉じ、冷徹な思考を取り戻そうとする。 脳裏に地図を広げる。ガリアの陣形、ポンペイウスの残党の動き、ナイルの水位と補給路の確保。 だが、どれほど思考を巡らせても、瞼の裏に浮かび上がるのは、潤んだ瞳で自分を見上げ、震えていたあの「白い首筋の脈動」ばかりだ。
52歳の理性が、けたたましく警報を鳴らし続ける。
『あれは罠だ、ガイウス。彼女は君を、ローマの剣を、利用しようとしているだけだ。彼女の涙は武器であり、その唇は契約書だ。情を抱けば、君の覇業は泥沼に沈むぞ』
だが、それ以上に強く、抗いがたい情動が、彼の鳩尾を熱く突き上げる。
『ならば、なぜ彼女はあんなに熱かった? なぜ、あの涙はあんなに私の指を焼いたのだ?』
カエサルは、暗闇の中で自らの掌を見つめた。 彼女の涙を拭った指先が、まだじりじりと熱い。 あの瞬間、彼女の瞳の奥に見えたのは、計算高い女優の光だけではなかった。 恐怖、孤独、そして自分という男への、どうしようもない依存。 それらが混然一体となった「真実」の欠片を、彼は確かに見てしまった。
(君は、私に嘘をついたのか? それとも、あの瞬間だけは……)
答え合わせをする術はない。 カエサルは苛立ちと共に、部屋の中を歩き回った。 彼は無意識のうちに、扉の方を何度も振り返っている自分に気づく。
彼女が来ない。 扉は叩かれない。
「先ほどは取り乱しました」という謝罪の手紙もなければ、「寝酒をご一緒に」という追撃の誘いもない。
そこにあるのは、完璧な「空白」だけだ。
その空白が、どんな敵軍の包囲網よりも、彼を孤独という壁に追い詰めていく。 もし彼女がすぐに追いかけてきていれば、彼は「やはり計算高い女だ」と嘲笑い、冷徹に対処できただろう。 だが、彼女は沈黙を守っている。 その沈黙の中で、カエサルの想像力だけが肥大し、彼女の涙の意味を、彼女の体温の理由を、勝手に解釈し、美化し、深みに嵌まっていく。
(……焦らし、か。それとも、私が逃げ出したことに呆れて、もう眠っているとでもいうのか?)
どちらにせよ、彼女の掌の上だ。 彼は、自分がすでに「彼女のことを考えずにはいられない」状態に陥っていることを認めざるを得なかった。 世界を征服した男が、たった一人の少女が与えた「不在」という名の拷問に、手も足も出ない。
「……小癪な。どこまで私を、試すつもりだ」
カエサルは、香りの染み付いた外套を再び手に取り、今度はそれを深く被って寝台に倒れ込んだ。 まるで、彼女の幻影に抱かれるように。
夜明けまであと数時間。 明日、彼女と顔を合わせた時、自分は果たして「ローマの執政官」の顔を保てるだろうか。 それとも、「彼女に魅入られた共犯者」の顔で、あのおぞましいほど甘い毒を飲み干してしまうのだろうか。
アレクサンドリアの夜風が窓を叩く。 世界の支配者は、一睡もできぬまま、その問いの答えを求めて悶え続けることになった。
52歳、カエサル。小娘の手練手管にどっぷり沼ってどうする…
でもそういうツメの甘さが、いい男の条件なのよね〜
ちょっとかわいいイケオジがお気に召した、という方は、
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