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女王の凱旋と涙の価値

 アレクサンドリアの朝日は、地中海の水平線を白金に染め上げ、宮殿の大理石を冷ややかに照らしていた。 重厚なレバノン杉の扉の向こうでは、エジプトの若き王プトレマイオス13世とその側近たちが、苛立ちを隠せずに待ち構えていた。昨夜、ローマの執政官の部屋へ忍び込んだ「絨毯」の行方。彼らにとっては予想外だった出来事の、その結末を知るために。


 扉が、軋みと共に開かれる。 現れたのは、衛兵に連行される哀れな捕虜ではなかった。


 一同が息を呑む音が、回廊に響く。 そこにいたのは、昨夜の埃と屈辱を洗い流し、真紅の外套をまるで王者のマントのように堂々と引きずって歩く姉――クレオパトラだった。 しかも、その傍らには、昨夜までの冷徹な表情を一変させたカエサルが、彼女の細い腰をしっかりと抱き寄せ、エスコートしている。


「……姉上、それは……」


 弟王が、信じられないものを見るように声を漏らす。 クレオパトラは、その怯えた少年の視線を無視し、カエサルの分厚い胸板に甘えるように寄り添った。睫毛を震わせ、上目遣いに彼を見上げる仕草は、昨夜の「知的な共犯者」の顔ではない。恋に溺れた、無力な女のそれだ。


「あら、陛下。……昨夜は閣下と、エジプトの……そして、私たちの『未来』について、朝まで語り明かしておりましたの。閣下は、私の拙い話をとても親身に聞いてくださって……」


 彼女の声は甘く、とろけるように湿っていた。 カエサルは、目の前のエジプト王には一瞥もくれず、彼女の頬を愛おしそうに、わざとらしく指の背でなぞってみせた。


「ああ。君の話は実に興味深かったよ、クレオパトラ。……プトレマイオス王。私の可愛い女王は、少しばかり話し疲れたようだ。退屈な国事の議論を始める前に、彼女のために最高の寝台と、ナイルで採れたての無花果いちじくを用意させろ。……これは『私の』頼みだ」


 カエサルの低い声。 それは「頼み」という名の、拒絶を許さぬ絶対命令だった。 弟王の側近である宦官ポティヌスは、その光景を見て青ざめた。彼らは悟ったのだ。もはや自分たちが戦っているのは、追い出したはずの無力な姉ではない。「彼女に狂った、世界最強の男」なのだと。




 謁見の間から退き、回廊の角を曲がった瞬間だった。 人目が途切れたのを見計らったかのように、カエサルの腕に力がこもった。 彼は甘いエスコートを捨て、強引に彼女を引き寄せると、石壁へと追い詰めた。

 ドンッ、と彼の大きな掌が、彼女の耳元の壁を叩く。 逃げ場のない、けれどどこか親密な距離。カエサルの革の匂いが、彼女を包み込む。


「……なんだ、その顔は。お嬢さん」


 カエサルは、彼女の強張った頬を、人差し指で揶揄うようになぞる。 その瞳には、先ほどまでの「慈悲深い保護者」の顔はなく、罠にかかった獲物を追い詰める老練な猟師のような、暗く、熱い愉悦が宿っていた。


「さっきの芝居は合格点だが……まだ、女王の誇りが隠しきれていない。君は今、私の愛人なのだろう? ならば、昨夜の約束通り、もっととろけた表情を見せてやりなさい。……弟君が、直視するのを恥じて顔を背けるほどにな」


 彼はわざと顔を近づけ、彼女の敏感な耳たぶに唇を触れさせる。

 それは愛撫というより、彼女の理性を試すような「意地悪」な問いかけ。


「そんな硬い表情では、私が君を無理やり従わせているように見えてしまう。私が求めているのは、君が自ら、私の腕の中で溶けていく『真実のような嘘』だ。……それとも、その脳髄で私を酔わせてみせるという昨夜の言葉も、ただの虚勢だったかな?」


 カエサルの低い笑い声が、鼓膜を震わせ、彼女の心臓を直接揺さぶる。 彼は、彼女が悔しさに唇を噛むのを見越して、さらにその唇を自分の親指で割り込み、なぞるのだ。


「ほら、笑え。私を愛してやまない、愚かで幸せな女のように」


 カエサルの大きな掌に追い詰められたまま、クレオパトラはふっと、その長い睫毛を伏せた。 彼女の中の「女王」が、屈辱に震える。


 ――この男は、私を試している。私が本当にプライドを捨てられるのか、それともただの口先だけの小娘なのかを。

 ならば、見せてあげましょう。 貴方が望む以上の、完璧な「崩壊」を。


 次の瞬間、彼女の伏せた瞳から、大粒の雫がぽろりと零れ落ち、カエサルの無骨な指先を濡らした。


「……!」


 カエサルの指がピクリと止まる。 彼女は声を押し殺し、ただ、唇をわななかせて彼を見上げた。 その瞳に宿っているのは、先ほどの計算高い女王の光ではない。かといって、単なる怯えでもない。理性を必死に繋ぎ止めようとして、それが決壊してしまった女の、あまりに無防備な眼差し。


「……これ以上、私をどうなさるおつもりですか、閣下」


 掠れた、消え入りそうな声。 彼女は抗うのをやめ、カエサルの分厚い胸元に、力なく額を預けた。 彼の赤い外套が、彼女の涙を音もなく吸い込んでいく。


「誇りを捨て、貴方の影に隠れ、望まれるままに『愛人』を演じております。……なのに、まだ足りないと

おっしゃるの? 私の心まで、完膚なきまでに溶かし尽くさなければ、貴方は満足してくださらないのかしら」


 彼女の肩が、小刻みに、痛々しく震える。


(震えて見せるのなんて簡単。涙だって、感情の蓋を少しずらせばいくらでも溢れるわ)


 それは、見事なまでの「あざとい」演技だった。 ……しかし、彼女の脳裏の片隅で、冷徹な理性が警鐘を鳴らす。


(待って。今、この涙を流しているのは『私』なの? それとも『女王』という役者なの? ……どうして、こんなに胸が苦しいの?)


 カエサルは、その震えを掌で感じながら、初めて「獲物」をからかうような笑みを消した。 彼女の涙は、あまりに熱く、あまりに無防備だった。 彼のような古兵ふるつわものは、女の嘘を見抜くことには長けている。だが、「嘘の中に、本人さえ制御できない真実が混じり込んでいる」時の、あの独特の危うい匂いには、抗う術を持たない。


「……クレオパトラ」


 彼は、壁についていた手を離し、戸惑うように彼女の細い背中に回した。 彼女を壊そうとしていたはずの指先が、いつの間にか、彼女の涙を拭うために、あるいはその「脆さ」を繋ぎ止めるために動いてしまう。

 彼女は彼の腕の中で、さらに深く顔を埋めた。


(これは、彼を籠絡するための罠よ。……そうよね? でも、どうしてこんなに安心してしまうの? この冷酷な男の腕の中が、どうしてこんなに温かいと思ってしまうの?)


 演技の演技。 嘘を塗り固めた先に現れた、名前のない情動。

 二人は今、歴史という巨大な盤面の上で、互いの魂を「共犯」という名の甘美な地獄へ、自ら投げ入れようとしていた。

 カエサルは、自分の胸元で肩を震わせるクレオパトラを、すぐには抱きしめなかった。 彼はあえて冷ややかな手つきで、彼女の濡れた頬を指先で弾くようにして顔を上げさせる。


「……見事なものだ、お嬢さん。その涙、その声の掠れ具合。ローマの円形劇場に立つ役者たちも、君の足元に跪いて教えを請うだろうな」


 彼はわざとらしく、賞賛を込めた乾いた笑みを浮かべてみせた。 彼女の「あざとい」攻勢に対し、彼は「その調子で頑張りなさい」と、まるで教師が生徒の演習を評価するかのような、残酷なまでの余裕で応えたのだ。


「その『壊れそうな小鳥』の顔を、明日もプトレマイオスたちの前で見せるといい。そうすれば、奴らは勝手に自滅する。……いいぞ、その調子で励むがいい」


だが。 そう言い放つカエサルの指先は、実は微かに強張っていた。


 至近距離で浴びせられる、彼女の熱を帯びた吐息。外套越しに伝わる、彼女の柔らかな体温。そして、涙に濡れた瞳が自分を射抜く時、カエサルの胸の奥で、久しく忘れていた「荒々しい警鐘」が鳴り響いたのだ。


(……何だ、この感覚は)


 ドクン、と。 心臓が、肋骨を内側から叩く。 ガリアの戦場で死の淵に立った時でさえ、これほど騒がしくはなかった。 52年の歳月をかけて築き上げてきた鉄の理性が、彼女の「演技だと分かっている涙」一滴によって、砂の城のように脆く崩れようとしている。


(私は、この小娘の嘘を楽しんでいるはずだ。彼女を「利用」し、「教育」しているだけだ。……それなのに、なぜ、このまま彼女を腕の中で握り潰してしまいたいほど、鼓動が速まっている?)


 彼は自分の動悸に、激しい当惑を覚えた。 自分は知っているはずだ。これは罠だと。彼女は国を守るために、自分を利用しているだけだと。 なのに、今この瞬間、彼女の涙を拭っている自分の掌が、実は彼女の存在を、その「毒」を、渇望していることに気づいてしまった。


「……閣下?」


 不意に、クレオパトラが涙の膜を張った瞳で、彼の当惑を覗き込もうとする。 その瞳は、すべてを見透かすように澄んでいる。

 カエサルは慌てて彼女の肩を押し戻し、わざとらしく背を向けた。 これ以上、彼女の瞳を見ていれば、自分が何をしでかすか分からなかったからだ。


「……夜風が冷えてきた。私はもう休む。君も、明日の舞台に備えて、その『美しい涙涙』を枯らさないようにしておきなさい」


 足早に立ち去るカエサルの背中は、いつになく強張っていた。 彼は知らない。 背後で涙を拭い、三日月のような不敵な笑みを浮かべた女王が、自分の早鐘のような「動悸」を、衣服越しに正確に聞き取っていたことを。


 クレオパトラは、自分の頬に残るカエサルの指の感触を確かめるように触れた。


「……可愛い人」


彼女は小さく呟くと、涙の跡が残る顔で、しかし勝者の笑みを浮かべて、朝の光の中へと歩き出した。


騙しているのはどっちなの?演技なのか本気なのか、あるいはそのどちらもなのか!

男と女の国家存亡をかけたラブゲーム、勝つのはどっちだ!


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