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英雄と愛人と、献身と誇りと

 カエサルの執務机の上には、アンフォラから注がれたばかりの赤ワインが、ランプの火を吸って揺らめいていた。 その横に広げられているのは、無機質なローマ軍の配置図と、アレクサンドリアの複雑怪奇な水路を描いた羊皮紙の地図。


 クレオパトラは、借りたばかりの真紅の外套パルダメントゥムを、まるで鎧のようにしっかりと前で合わせ、素足で床を踏みしめて机に歩み寄った。 先ほどまでカエサルの掌に頬を寄せていた、あどけなさを装った湿った瞳は、いまや氷のように冷徹な理性の光を湛え、地図上の一点を射抜いている。


「……閣下。単刀直入に申し上げますわ」


 彼女の声は、部屋の隅々にまで染み渡るほど澄んでいた。


「今、貴方がこの宮殿で、私の弟――プトレマイオス13世との和解を模索し、彼を支持し続けるならば。貴方は数日以内にアレクサンドリアの『暴徒』に包囲され、ローマの誇りとともに、このナイルの泥に沈むことになります」


 あまりに不吉な予言。 だが、カエサルは眉一つ動かさず、銀の杯を傾け、ゆっくりとワインを口に含んだ。その仕草は、戦場ではなく、ローマのサロンで哲学談義に興じているかのように優雅だ。


「ほう。……絨毯から出てきたばかりの21歳の少女が、ローマの不敗の将軍に軍事的な進言をしようというのか?」

「いいえ。軍事などという野蛮な話ではありません」


 彼女は首を振ると、外套から白く細い指先を覗かせ、地図上の海岸線をトントン、と叩いた。


「私はただ、貴方の『兵站ロジスティクス』の致命的な欠陥を指摘しているだけですわ」

「欠陥?」

「ええ。今の季節、ナイルから地中海へ向かって吹く『エテジア(季節風)』をご存知? この風が吹き始めれば、貴方の重たい軍船は港から出られなくなる。つまり、ローマへの退路は断たれるのです」


 カエサルの杯を持つ手が、空中でぴたりと止まった。 彼はゆっくりと視線を上げ、目の前の小柄な少女を見据える。その瞳に、初めて「被保護者」ではなく「同業者」を見るような、鋭い光が宿った。


「……続けて」


 許可を得たクレオパトラは、さらに一歩、地図へと身を乗り出した。カエサルの革鎧から漂う匂いに包まれながら、彼女は淡々と、しかし熱っぽく言葉を紡ぐ。


「現在、弟の背後にいるのは、宦官ポティヌスと将軍アキラス。彼らはローマに媚びることを何より嫌う、エジプトの保守派です。彼らが持っているのは、貴方の手勢の十倍に及ぶ正規軍。対して、貴方が持っているのは、風に閉じ込められた船と、数千の兵だけ」


 彼女は残酷な事実を突きつけた上で、カエサルの瞳を覗き込んだ。


「彼らが望んでいるのは、和解でも交渉でもありません。ローマの執政官の首……それも、できるだけ惨めな形で切り落とされた、見世物としての首ですわ」


 カエサルは杯を机に置いた。カツン、という乾いた音が響く。 彼は腕組みをし、面白そうに口角を上げた。


「なるほど。私の首が危ないことは理解した。だが、お嬢さん。それは君も同じだろう? 私が負ければ、君もまた弟の手によって処刑される」

「ええ、その通りです。だからこそ、私たちは『一蓮托生』なのです」


 彼女は地図の上にあるカエサルの広げられた手、その指の間をなぞるように自分の指を這わせた。


「私が王座に返り咲けば、ナイルの穀物はすべて貴方のものです。ローマの市民はパンに困ることはありません。さらに、紅海を経由したインドへの香辛料の交易路も、私が保証しましょう」


 彼女の声が、一段低く、艶を帯びる。


「カエサル。貴方が真に求めているのは、エジプトという『土地』の支配権ではないはずです。広大すぎる領土は、統治のコストを増やすだけ。……貴方が欲しているのは、肥大化したローマを維持するための、尽きることのない『巨大な胃袋』でしょう?」


「……!」


 カエサルは息を呑んだ。 この娘は、ローマの政治事情――市民への穀物配給パンとサーカスがいかに重要か、そして自分が元老院との政争において何を「武器」にしようとしているかを、正確に見抜いている。

エジプトの富そのものではなく、それがローマにもたらす「安定」こそが、カエサルの覇権の礎となることを。


「それを貴方に差し出せるのは、傀儡かいらい遊びに興じる無能な弟や、欲深い宦官たちではありません。……この私、クレオパトラだけですわ」


 彼女は地図の上に、自分の小さな掌をぴたりと重ねた。 まるで、エジプト全土をその手で覆い隠し、「欲しければ私ごと奪ってみせろ」と言わんばかりに。


「今夜、私をこの部屋から出さないで。明日、夜が明けたら、私が貴方の傍らに立っている姿を、エジプトの全土に知らしめるのです。それは愛の告白などという甘いものではありません。『ローマの剣とエジプトの富が、一つの契約を結んだ』という、世界への宣戦布告になります」


 部屋の空気が、熱を帯びて張り詰める。 カエサルは、地図を叩いた彼女の小さな手の上に、自らの大きな掌を重ねた。 そして、そのままゆっくりと力を込める。

逃げ場を奪うような、けれど確かな体温を持った拘束。骨が軋むほどの強さで握りしめながら、彼は試すように目を細めた。


「……口では何とでも言える。裏切らないという誓いを聞こうか、女王陛下」


 カエサルの声は低く、威圧的だ。


「砂漠の砂が風で形を変えるように、女の約束も一夜明ければ消え失せるのが常だ。私が弟を排除し、君を王座につけた瞬間、君がその知恵を使って私の喉笛を食い破らないという保証はどこにある?」


 彼の瞳は笑っていない。 彼は今、目の前の少女を「女」としてともに在るための欲求と、政治家として「劇薬」を飲み込むリスクを、天秤にかけているのだ。

 クレオパトラは、痛いほどに握りしめられた手から逃げようとはしなかった。 むしろ、その痛みを歓迎するかのように、ふっと、自嘲気味な、けれどひどく艶然とした笑みを浮かべた。


「……まず、弟のプトレマイオスについては、殺す必要はありませんわ」


 彼女の回答は、あまりに冷徹だった。


「今殺せば、彼は『ローマに殺された悲劇の少年王』として神格化され、反乱の火種になりますわ。弟は生かします。『ローマの慈悲』という名の鎖に繋がれた、飾り物の共同統治者として。……民を鎮めるための、便利な偶像アイドルとして利用するのです」

「ほう……。実の弟を、生かしたまま飼い殺しか」

「王族に、肉親の情などという贅沢品はありません。あるのは勝者と敗者、それだけです」


 彼女の声から、あどけなさが完全に消えた。 彼女は握られた手を軸にして、一歩、カエサルの懐へと深く踏み込んだ。 彼が纏う革の匂いと、ローマ風の香油の香りが、鼻腔を満たす。彼女は彼の赤い外套の襟を、空いているもう片方の手で強く握りしめ、囁いた。


「そして、閣下。私が貴方を裏切らないという『誓い』をお望みなら……差し上げましょう」

 彼女は爪先立ちになり、彼の耳元へと唇を寄せた。


「明日から、私は貴方の『愛人』として生きる。……エジプトの女王としての誇りは、今この瞬間に、貴方の足元へ捨て置きますわ」

「……何?」


 カエサルの眉がピクリと動く。


「同盟者としてではなく、愛人としてだと? 誇り高いファラオの末裔である君が、それを望むと言うのか」

「ええ。対等な同盟者であれば、いつか利害が対立し、裏切る可能性があります。けれど……」


 彼女の瞳に、揺らぐことのない暗い炎が灯る。


「貴方の情婦として蔑まれ、『ローマの将軍をたぶらかした毒婦』と世界中から指を差される道を選びましょう。弟を裏切り、国を売り、異国の男の寝床に潜り込んだ女。……そうやって私の名誉を地に落とすことこそが、私が貴方を裏切れないという、何よりの証左ではありませんか?」


 彼女は、あまりに悲痛で、あまりに戦略的な愛の告白を口にした。


「私は自らの退路を断つのです。私の尊厳も、名誉も、すべて貴方に預けます。そうすれば、貴方の影の中にしか、私の居場所はなくなるのですから」


 カエサルの呼吸が止まった。 彼女は、単に「味方になる」と言っているのではない。

「自らの名誉を殺し、貴方の所有物になることで、運命を一つにする」と、究極の心中を申し出ているのだ。 それは、どんな契約書よりも重く、どんな血判状よりも生々しい、魂の譲渡契約だった。


「……馬鹿な女だ」


 長い沈黙の後、カエサルが吐き捨てるように言った。 だが、その声色は震えていた。 彼は、机に重ねていた手を離すと、彼女の首筋に乱暴に手を回し、その震える頸動脈の拍動を掌で包み込んだ。

 それはもはや「保護」ではない。自らの人生に、この恐ろしいほどに賢く、美しい「呪い」を招き入れる儀式だった。


「誇りを捨てると言ったな。……いいだろう。その誇り、私が預かろう」


 カエサルの指が、彼女の顎を上向かせる。 至近距離で交錯する視線。そこには、男女の情欲を超えた、共犯者だけが共有できる昏い悦びがあった。


「明日から、世界は君を私の『愛人』と呼び、蔑むだろう。だが、君だけは知っているはずだ。自分が誰よりも賢く、誰よりも勇敢に、国を守った女であることを」


 彼は顔を近づけ、彼女の唇に触れる寸前で止めた。


「この部屋の中だけで、私を『ガイウス』と呼ぶことを許そう。……それは、世界の半分を君に分け与えるという、私なりの誓約だ。受け取るか? クレオパトラ」


 クレオパトラは、こみ上げる熱いものを飲み込み、あえて不敵に微笑んだ。 その瞳から一筋だけ、計算ではない涙がこぼれ落ちる。


「……ええ。喜んで、私のガイウス・ユリウス・カエサル」


 カエサルは彼女を引き寄せ、外套の暗闇の中にその小さな身体を閉じ込めた。 窓の外では、ナイルの川面が白み始め、夜明け前の予感に震えている。

 だが、宮殿の外を取り囲む兵士たちはまだ知らない。 この部屋の中で、歴史がたった二人の深夜の囁きによって、決定的に書き換えられてしまったことを。


52歳、ハゲかけ、でも最高にいい男。そんなカエサルの魅力が少しでも伝われば幸いです。


「カエサルかっこいい!」「クレオパトラの覚悟に痺れた!」

と思っていただけた方は、ぜひ下にある**【☆☆☆☆☆】評価と【ブクマ】**で応援をお願いします。


皆様の応援ポイントが、二人の世界帝国への糧になります!

感想もお待ちしております!

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