表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/14

あるいは、紅蓮の代償

「水」の危機を脱したのも束の間、アレクサンドリアの港は新たな脅威に晒されていた。 敵将アキラスは、宮殿への陸路が攻めあぐねていると見るや、標的を「海」へと切り替えたのだ。 エジプト艦隊の残党が集結し、ローマ軍の退路である港を封鎖しようとしている。もし制海権を奪われれば、カエサルは袋の鼠となり、ローマからの援軍も上陸できない。


 夜のテラス。 カエサルは、松明の灯りが揺らめく港を見下ろし、苦渋の決断を下した。


「……焼くしかない」


 隣に立つクレオパトラが、息を呑んで振り返る。


「焼く? まさか、港のエジプト艦隊をすべて?」


「ああ。敵の手に渡る前に灰にする。……こちらの船も巻き添えになるかもしれんが、背に腹は代えられん」


 カエサルの声は冷徹だった。 彼は、愛する女の国の一部を焼くことに躊躇いを見せない。軍人にとって、勝利のためなら都市の一つや二つ、地図から消すことは「必要経費」なのだ。


「……いいわ。貴方がそう判断するなら」


 クレオパトラは頷いた。彼女もまた、甘いだけの少女ではない。生き残るためには犠牲が必要だと理解している。


 数刻後。 カエサルの命令により、停泊中のエジプト艦隊に向けて火矢が放たれた。 油を撒かれた船体は瞬く間に炎上し、夜の闇を真昼のように赤く染め上げた。


「燃えろ! 焼き払え!」


  ローマ兵たちの歓声が上がる。敵艦隊は次々と爆発し、海面は火の海と化した。作戦は成功したかに見えた。

 だが。


「風だ……! 北風が強すぎる!」


 誰かが叫んだ。 強風に煽られた炎の塊が、海から陸へと飛び火したのだ。 火の粉は、港に隣接する穀物倉庫へ、そしてその奥にある、白亜の巨大な建造物へと降り注いだ。


 クレオパトラの顔色が真っ白に変わった。


「……待って。あそこは……まさか」


 彼女の視線の先。

  そこは、世界中のあらゆる知識、書物、歴史が集められた人類の至宝――「アレクサンドリア大図書館」だった。


「嘘……? やめて、消して! あそこには、アリストテレスの原典が、失われた悲劇の詩が……!」


 彼女の悲鳴は、轟音にかき消された。 乾燥したパピルスの巻物は、これ以上ないほどの燃料だった。 炎は一瞬にして図書館を飲み込み、夜空に向けて、知識の悲鳴のような青白い火柱を噴き上げた。 数千年の歴史が、灰となって舞い上がり、二人の立つテラスへと雪のように降り注ぐ。

 カエサルは、燃え上がる図書館を見つめ、微動だにしない。


「……風向きが変わったか。不運だったな」


 乾燥したパピルスの巻物は、炎にとってこれ以上ない極上のまきだった。 一瞬にして、数千年の英知が爆ぜる音がした。 夜空に向けて、知識の悲鳴のような青白い火柱が噴き上がり、無数の文字が刻まれた紙片が、灰となって雪のように舞い上がる。


「だが、これで港は確保できた。我々の勝ちは揺るがない」


 彼は振り返り、すすで汚れた手で、クレオパトラの肩を抱き寄せようとした。


「行くぞ、クレオパトラ。煙が来る。中に戻ろう。……建物の一つや二つ、いずれ、もっと立派なものを建ててやる」


 それは、破壊者の論理だった。 だが、クレオパトラは動かなかった。 彼女は、差し出されたカエサルの手を振り払うことも、彼を罵ることもしなかった。


 ただ、炎の熱風を正面から受け止め、ゆっくりと一歩、テラスの柵へと歩み寄った。 その瞳には、燃え落ちる「知の神殿」が映り込み、大粒の涙が、炎の赤を反射して止めどなく溢れ出している。


 そして、響く。まだ少女の色合いがのこる、可憐な、けれどたしかに女王の声。


「……『怒りを歌え、女神よ。ペレウスの子アキレウスの……』」


 カエサルが眉をひそめる。


「……何だ? 詩か?」


 その声は、炎の轟音にかき消されそうなほど細く、けれど祈りのように澄んでいた。

 ホメロスの叙事詩『イリアス』の冒頭。

  続いて彼女は、流れるように言葉を変える。今度は幾何学の定理、そして失われたサッフォーの愛の詩。

 彼女は、燃えていく書物の中身を、その脳内から引き出し、くうに向かって朗読していたのだ。


「……『月は沈み、プレアデスも沈んだ。夜は半ばを過ぎ、時は過ぎ行く。私は一人、している……』」


 彼女の手が、空を掴むように優雅に舞う。 それは、エジプトの神殿で巫女が捧げる、死者を送るための鎮魂のダンスだった。 白い腕がしなやかに夜気を切り、指先が灰を纏う。 燃え尽きていくパピルスの一巻一巻を、彼女は記憶の中で開き、読み上げ、そして永遠の虚空へと送り出しているのだ。


 彼女の頬を伝う涙は、悲しみの涙ではない。 二度と戻らない「人類の記憶」に対する、最後の口付けのような慈愛に満ちていた。


「『……三角形の内角の和は、二直角に等しい。……円の面積は……』」


 数学の真理さえも、彼女の唇を通せば美しいうたになった。 燃え盛る炎の前で、たった一人、舞い踊りながら知識を紡ぐ女王。 その姿は、狂気と紙一重の、凄絶なまでの「知性への愛」そのものだった。

 カエサルは、彼女を止めることができなかった。


(……なんてことだ)


  彼は、自分が「ただの建物」として焼いたものが、彼女にとって何であったかを、今さらながらに理解させられた。 そして同時に、戦慄した。 目の前のこの少女は、数万冊の書物が灰になるその瞬間に、自らの肉体を「器」として、知識を保存しようとしているのだ。


 やがて、図書館の屋根が崩れ落ちる轟音が響いた。 巨大な火の粉が舞い上がり、クレオパトラの舞も、糸が切れたように止まった。 彼女は肩で息をしながら、灰にまみれた顔で、燃え尽きた廃墟を見つめていた。


「……全部、燃えてしまったわ」


 彼女は、掠れた声で呟いた。


「私の先生たちが。過去の賢者たちが。……カエサル、貴方の勝利の代償は、とても高価よ。貴方にはわからないくらいに」


 彼女はカエサルを責めなかった。ただ、事実としてそう告げた。 その瞳から光が消えかけ、膝が崩れそうになった、その時。


 カエサルの力強い腕が、彼女の身体を抱き止めた。


「……泣く必要はない」


 カエサルの声は、驚くほど低く、そして優しかった。 彼は、彼女の涙で濡れた頬を、煤けた親指で乱暴に、しかし確信を持って拭った。


「思い出せ、クレオパトラ。君は私に何と言った?」


 彼は、彼女の瞳を覗き込み、あの絨毯の夜に彼女が放った言葉を、そのまま突き返した。


「『私の頭の中には、アレクサンドリア図書館よりも深く、刺激的な知識が詰まっている』。……そう言ったのは、君自身ではなかったか?」


 クレオパトラが、ハッとして彼を見上げる。


「建物など、いくらでも燃えるがいい。パピルスなど、風に舞えばいい。……だが、真の『エジプトの知恵』は、ここにある」


 カエサルは、彼女のこめかみを、人差し指でトン、と突いた。


「君が覚えている限り、知恵は死なない。……そうだろ? 私の生ける図書館ビブリオテケー


 それは、傲慢なローマ人の詭弁かもしれない。 だが、その言葉は、絶望の淵にいた彼女の「女王としての自尊心プライド」に、強烈な火を灯した。 知識は紙にあるのではない。それを継承する人間の中にこそあるのだ、という、究極の人間賛歌。


 クレオパトラの瞳に、再び光が戻る。 彼女は涙を止め、カエサルの胸板に手を置いた。


「……そうね。おっしゃる通りですわ、執政官閣下」


 彼女は、燃える図書館を背にして、不敵に微笑んだ。その笑顔は、炎よりもなお熱く、美しかった。


「私が生きている限り、アレクサンドリアは死なない。……私の頭の中には、燃やされた書物のすべてが、一文字残らず刻まれているから」


 彼女は、カエサルの首に腕を回し、煤の味のする口付けを交わした。 それは、二人で背負った「文明破壊」という巨大なカルマを共有する、共犯の味だった。


「でも、責任は取っていただくわ、カエサル。……貴方が焼いた分の知識、これからは貴方の勝利で埋め合わせて」


「ああ、約束しよう。……さあ、行こう。夜明けまでには、この火を鎮めねばならん」


 二人は、灰の雪が降るテラスを後にした。 背後ではまだ、人類の遺産が音を立てて崩れ落ちていく。


だが、カエサルの隣を歩くクレオパトラの背中は、もう震えてはいなかった。

本を読む人間にとって、図書館が燃えることの悲しみは想像できてしまうだけに辛い…

そんなクレオパトラの悲しみを感じてくれた皆様は、この下の評価、またはブクマで追うお円をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ