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あるいは、女神たちの加護

 あの大王の墓所での「婚礼の誓い」から、わずか数週間。 アレクサンドリアの王宮は、いまや絢爛豪華な神殿ではなく、血と汗と腐敗臭に満ちた巨大なおりと化していた。


 事態は、カエサルの予想を裏切り、最悪の形で急転していた。 姉弟の和解を命じたカエサルに対し、弟王プトレマイオス13世は王冠を地面に叩きつけ、「ローマの侵略だ!」と泣き叫んで民衆を扇動したのだ。 そのパフォーマンスは劇薬となり、アレクサンドリア市民は暴徒化。さらに敵将アキラスが率いる2万の正規軍が雪崩れ込み、カエサルの手勢わずか4千は、宮殿エリアの一角に完全に封鎖されてしまったのである。


 そして今、最大の危機が訪れていた。


「水」だ。



「――水だ! 真水を持ってこいッ!」

 回廊に、獣のような怒号が響き渡る。 そこにいたのは、あの余裕綽々とした「ハゲの女たらし」の姿ではなかった。 無精髭ぶしょうひげが頬を覆い、目は充血し、埃にまみれた革鎧を纏ったカエサルが、銀の杯を床に叩きつけていた。


 ガシャンッ、という音と共に、中の液体が飛沫を上げる。


「閣下……! やはりダメです。運河から引いている水路に、海水が混じっています。敵が……海水をポンプで逆流させる仕掛けを使ったようです」


「クソッ! エジプト人の陰湿な知恵め……!」


 カエサルは、飛沫のかかった自分の頬を乱暴に拭った。その味は、嘔吐を催すほどに塩辛い。 兵士たちは渇きに喘いでいる。水がなければ、ローマ最強の軍団も三日で瓦解する。


「私の誤算だ……。ローマの名さえあれば、蛮族などひれ伏すと思っていた。その驕りが、兵たちを干上がらせている!」


 カエサルは壁を殴りつけた。拳から血が滲む。 常に冷静沈着であったはずの英雄が、自らの慢心ヒュブリスに直面し、追い詰められている。

 その修羅場の隅で。 簡素な麻のチュニック一枚を纏い、髪を無造作に束ねただけのクレオパトラが、じっとその光景を見つめていた。


(……この人をこんな目に遭わせているのは、私だわ)


 彼女の胸の奥で、鋭い痛みが走る。 彼がこの国に来たのは、ポンペイウスを追うためだった。だが、彼がこの危険な宮殿に留まり続け、命を危険に晒しているのは、間違いなく「私」を選んだからだ。 私の野心が、私の夢が、世界最強の男をこの檻に閉じ込めた。


(謝りたい。……でも、ダメ。私が謝れば、彼は『君のために戦ったことを後悔している』と認めることになる)


 彼女は、震える唇を強く噛み締め、罪悪感を飲み込んだ。

 そして、顔を上げる。 そこにあるのは、悲劇のヒロインの顔ではない。男の運命を預かった「女神」の顔だった。


 彼女は衣の懐から、小さな革の水袋を取り出した。 それは、彼女自身の命を繋ぐために配給された、最後の一杯の真水だった。


「……カエサル」


 彼女は静かに歩み寄り、苛立つ彼の背中に声をかけた。 カエサルが振り返る。その瞳には、血走った殺気と、彼女に見られたくないという弱さが混在していた。


「あっちへ行け、クレオパトラ。今は取り込み中だ。水路の確保策を考えねば……」


「叫んでも水は湧かないわ。……まずはこれを。口を湿らせてから、私の話を聞いて」


 彼女は有無を言わさず、革袋の口を彼の乾ききった唇に押し当てた。 カエサルは反射的にそれを飲んだ。 喉を滑り落ちる、冷たく甘い真水の感触。彼は貪るように一口、二口と飲み、ハッとして口を離した。


「……待て。これは、君の分ではないのか?」


  「いいえ。……余っていた分よ」


 彼女は平然と嘘をついた。その喉が渇きで張り付き、かすれそうになるのを悟られぬよう、優雅に微笑んでみせる。


「自分を責めるのはやめて。貴方がこの檻にいるのは、貴方の失策ではないのだから」


 彼女は、カエサルの血が滲む拳を、自分の両手で包み込んだ。 そして、罪悪感を隠すように、強く、神託を告げるような声で言った。


「貴方は、私の手を取った。……エジプトの現人神あらひとがみである、この私の手を。ならば、貴方はもう人間だけの運命のなかにはいない」


 カエサルが、眩しいものを見るように目を見開く。


「女神イシスは、自らの伴侶を絶対に見捨てない。私が貴方を選んだ以上、この国の神々もまた、貴方を守護する義務があるわ」


 彼女は、カエサルの乱れた前髪を優しく撫で上げた。


「それに、貴方の家系(ユリウス氏族)は、美の女神アフロディーテ(ウェヌス)の血を引いているのでしょう? ……イシスとアフロディーテ。二柱もの女神がついている男が、たかが塩水ごときで滅びるはずがないでしょう?」


 それは、根拠のない神話だ。 だが、極限状態の戦場において、これほど男の自尊心と信仰心を揺さぶる「論理」はなかった。

「私が原因だ」と泣いて謝るのではなく、「貴方は神に愛されているから大丈夫だ」と断言する。 その強がりこそが、彼女なりの贖罪であり、最大の愛だった。


 カエサルの瞳から、殺気立った焦燥が消え、代わりに静かな理性の光が戻ってくる。 彼は、空になった革袋と、彼女の渇いた唇を交互に見つめ、苦笑した。


「……参ったな。女神にそこまで言われては、干からびている暇はないか」


 彼は、彼女の手を握り返した。その掌には、確かな力が戻っていた。


「私の守護神殿パトロネッサ。……感謝する。だが、イシス女神よ。天からの守護もありがたいが、私は今、もう少し即物的な『知恵』が欲しいのだがね」


「あら。それなら、ちょうど用意しておいたところよ」


 クレオパトラは、カエサルの余裕が戻ったことに安堵し、悪戯っぽく瞳を輝かせた。 そのままカエサルを地図のテーブルへと引いていく。


「ローマの地図には載っていない、この街の『血管』……忘れられた地下水脈の地図なら、私の頭の中にあるの。……さあ、反撃を始めましょう、カエサル」


 カエサルは、彼女が広げた羊皮紙の地図を食い入るように見つめた。 そこには、ローマ軍が把握している水路とは別に、宮殿の地下深くを網の目のように走る、複雑な青いラインが描かれていた。


「……信じられん。真水が湧き出る層が、この石灰岩の下にあるというのか?」


「ええ。アレクサンドリア建設時、大王アレクサンダーの設計士たちが、非常時のために隠した王家専用の水脈。敵のアキラスたちも、この『深さ』までは知らないはず」


 カエサルは顔を上げ、充血した目でクレオパトラを射抜いた。 その目には、感謝と共に、鋭い疑念の光が宿っていた。


「……クレオパトラ。なぜ、今まで黙っていた」


 彼の声が低くなる。


「我々が渇きに苦しみ始めてから、すでに二日が過ぎている。もっと早くこれを教えていれば、兵たちがパニックになることも、私が無様に叫び散らすこともなかったはずだ。……違うか?」


 痛いところを突かれた。 クレオパトラは視線を逸らさず、しかし、その表情に微かな苦渋を滲ませた。


「……言えなかった」


「なぜだ? 私を試したのか?」


「いいえ。……怖かったの、カエサル」


 彼女は、地図上の青いラインを指先でなぞった。


「これは、エジプト王家の『命綱』であり、この都の最大の弱点(急所)。これを貴方に教えるということは……ローマ軍に、『いつでもアレクサンドリアを干上がらせることができる首輪』を渡すのと同じこと」


 彼女の声が震えた。 それは、国の主権者としての、ギリギリの抵抗だったのだ。


「私はエジプトの女王。たとえ貴方を愛していても、ローマの将軍に国の急所を売り渡すことは、ファラオとしての裏切りになる。だから……貴方が自力で解決してくれるのを、信じて待ちたかった」


 カエサルは息を呑んだ。 彼女がただの恋に溺れた女なら、すぐに話していただろう。 だが彼女は、渇きに喘ぐ兵士や、愛する男の苦境を目の当たりにしてもなお、「女王としての義務」と天秤にかけて迷っていたのだ。


「……だが、君は話した」


 カエサルは、彼女の手を地図の上で覆った。


「国を裏切ってまで、私に水をくれるというのか」


 クレオパトラは、寂しげに、けれど憑き物が落ちたように微笑んだ。


「ええ。……先ほど、貴方が壁を叩いて悔しがる姿を見て、決心がついたから」


 彼女は、もう片方の手で、カエサルの荒れた頬に触れた。


「国を守る義務よりも、貴方を失う恐怖の方が勝ってしまった。……女王失格、なのでしょう」


 カエサルは、彼女を引き寄せ、その額に唇を押し当てた。 渇いた喉に水が染み渡るように、彼女の覚悟が胸に落ちる。


「……いいや。君は最高の女王であり、最高の共犯者だ。この『裏切り』の代償は、必ずローマの剣で支払わせてもらう」


 彼は地図を巻き上げ、大声で百人隊長を呼んだ。 「工兵隊を呼べ! ここを掘るぞ! 女神からの贈り物だ、一滴たりとも無駄にするなッ!」

 カエサルの号令一下、ローマ軍団の工兵隊が動き出した。 彼らは剣をツルハシに持ち替え、宮殿の中庭――かつては王族が涼んだ大理石の床――を無慈悲に打ち砕き始めた。


 カーン、カーン、という硬質な音が、焦燥感に満ちた空気を切り裂く。


  「本当にここにあるのか?」

「エジプト女のデタラメじゃないか?」


  兵士たちの間には、まだ疑心暗鬼が渦巻いている。彼らの唇は乾いてひび割れ、目は落ち窪んでいる。もしここから水が出なければ、その絶望が暴動へと変わるのは時間の問題だった。

 カエサルは、腕組みをして掘削現場を見下ろしていた。その背中は微動だにしない。 隣に立つクレオパトラは、祈るように指を組んでいた。 (お願い、イシスよ。……あの大王の時代の設計図が、まだ生きていると教えて) 彼女が差し出したのは、国の防衛機密だ。もし水が出なければ、彼女は国を売っただけでなく、愛する男に嘘をついた女として軽蔑されることになる。


 一時間、二時間。 太陽が中天に差し掛かり、兵士たちの疲労が限界に達しようとした、その時だった。


「――ッ! 湿った土だ!」 穴の底から、裏返った叫び声が上がった。 「水だ! 水が滲み出してきやがったぞ!」


 現場が静まり返る。次の瞬間、工兵たちが狂ったように土をかき出し始めた。 泥水が吹き出し、やがてそれは、驚くほど澄んだ透明な奔流となって溢れ出した。


「水だ! 真水だあッ!」


 歓声が爆発した。 兵士たちは我先に兜を差し出し、あるいは顔ごと泥水に突っ込み、その恵みを貪った。


「甘い! 塩気がないぞ!」

「生き返った……! ローマ万歳! カエサル万歳!」


 歓喜の渦の中、カエサルは百人隊長が差し出した兜を受け取った。 波打つ水面には、泥と埃にまみれた自分の顔が映っている。彼はそれを一息に煽った。 冷たく、甘露のような水が、干上がった五臓六腑に染み渡っていく。


「……美味い」


 カエサルは口元を拭い、ニヤリと笑った。あの不敵で、魅力的な英雄の顔が戻っていた。 彼は振り返り、呆然と立ち尽くすクレオパトラを見た。


「聞いたか、クレオパトラ。ローマの兵たちが、エジプトの水を『甘い』と叫んでいる」


「……ええ。良かった……本当に……」


 彼女の目から、安堵の涙がこぼれ落ちた。 国の秘密を売った罪悪感も、失敗への恐怖も、兵士たちの笑顔が洗い流してくれた。

 カエサルは歩み寄り、衆目も憚らず彼女の肩を抱いた。 そして、高らかに宣言した。


「兵たちよ、聞け! この水をもたらしたのは、ここにいる女王クレオパトラだ! 彼女の知恵が、我々の命を繋いだのだ!」


 一瞬の静寂の後、割れるような歓声が再び沸き起こった。 「女王万歳! クレオパトラ万歳!」 ローマの兵士たちが、異国の女王の名を叫んでいる。それは、彼女が単なる「客分」から、彼らの「戦友」として認められた瞬間だった。


 カエサルは、彼女の耳元で低く囁いた。


「これで貸し借りなしだ、共犯者殿。……君が国を売ってくれたおかげで、ローマは息を吹き返した」


「……意地悪な言い方ね、カエサル」


 クレオパトラは、涙を拭い、誇らしげに胸を張った。


「でも、貸しは一つよ。……この水の代金は、必ず『勝利』で支払ってもらうから」


 宮殿の中庭に、水の音と笑い声が響く。

 だが、二人は知っていた。 この水は、単なる延命措置に過ぎないことを。 籠の中の二匹の獣は、渇きを癒やし、爪を研いだ。

 次なる脅威――全てを焼き尽くす「紅蓮の炎」が、すぐそこまで迫っていた。


第二部、始まりました!

ラブラブなのは良いけれど、意外と苦労する二人の戦、エジプト編。

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