あるいは、覇者の呪い
アレクサンダー大王の墓の重い石扉が閉ざされた瞬間、外の世界の喧騒が嘘のように遮断された。
そこにあるのは、死者だけが許される絶対的な静寂と、地下特有の冷え冷えとした空気だけだった。
回廊の奥、揺らめく松明の光の中に、伝説の覇者が眠るクリスタルの棺が浮かび上がっている。かつて世界をその足で踏みしめ、東の果てまで征服した若き王の沈黙が、今の二人を圧倒的な質量で包み込んでいた。
クレオパトラは、カエサルの隣を静かに離れ、大王の前に進み出た。
彼女の頬には、先ほど群衆の前で拭った血の跡が、まだ乾いた赤錆色として薄く残っている。
白い死装束を纏い、自らの身を守った重い剣を足元の石畳に置いた彼女は、もはやカエサルを誘惑する女でも、策を弄する女王でもなかった。
彼女はただ、偉大なる血脈の末裔として、敬虔に頭を垂れ、目を閉じた。
微かな唇の震えも、計算された涙もない。ただ、エジプトという国が背負ってきた数千年の重みと、これから流れるであろう血の匂いをその細い背に負い、静かに祈りを捧げるその姿は、あまりに孤高で、神聖だった。
カエサルは、その背中を少し離れた場所から見つめていた。
(……やられたな)
彼は、自嘲気味に肺の底から息を吐いた。
この地下室に入ってから、彼女は一言も発していない。自分の傷を盾にして同情を誘うこともなければ、愛を囁いて媚びることもない。
だが、その突き放したような「沈黙」こそが、カエサルに逃れようのない現実を突きつけていた。
彼の脳内で、これまで走っていた無数の政治的シミュレーションが、音を立てて崩れ去り、たった一つの方程式へと収束していく。
ローマの安定、元老院との駆け引き、ポンペイウス残党の処理。
それらすべてが、「変数」から「定数」へと変わる。
彼にとって、エジプトを単なる属州として踏みにじり、この娘を捨て置くという選択肢は、もはや論理的に消滅していた。
彼女という「劇薬」を自らの人生に組み込み、彼女をエジプトの王座に据え置くこと。
それこそが、ローマにとっても、そして「ガイウス・ユリウス・カエサルという一人の男」にとっても、唯一の、かつ最高の解である。
理屈ではない。彼の魂が、この「美しき毒」なしでは、もはや渇きを癒せないと叫んでいるのだ。
カエサルはゆっくりと歩み寄り、彼女の隣に立った。
クリスタルの棺の中、永遠の若さを保つ大王の遺体を見つめる彼の瞳には、もはや迷いはない。あるのは、これから始まる修羅の道への、静かな覚悟だけだ。
「……満足か、お嬢さん」
カエサルの声が、石壁に反響する。
「大王も、君のような生意気で、傷だらけの娘が自分の跡を継いでいると知れば、さぞかし苦笑していることだろう」
クレオパトラは、ゆっくりと目を開け、カエサルを見上げた。
そこには、先ほどの朝食の席で見せた「蕩けた顔」の残像も、媚びるような色もなかった。ただ、一人の戦友を信頼するような、澄んだ、しかし恐ろしいほどに深い光が宿っている。
「閣下。……大王が望んだのは、単なる支配ではありません」
彼女は、棺の中の王に触れるように、クリスタルの表面を指先でなぞった。
「西のローマと、東のエジプト、そしてその先にあるペルシア、インド……。大王は、すべての文化が溶け合い、一つになる『世界帝国』を夢見ておられました。国境などない、たった一つの地平線を」
彼女はカエサルの方を向き、その瞳を覗き込んだ。
その視線は、カエサルの背後にあるローマ元老院の狭苦しい議場など見ていない。遥か東方、未だローマが踏み込んでいない未知の領域を見据えていた。
「私は、その夢の続きを、貴方と見たいだけ。……貴方の剣があれば、世界はもう一度、一つになれる」
その言葉は、甘い愛の囁きのように聞こえて、実は呪詛だった。
彼女はカエサルに、「ローマの独裁官で終わるな」と言っているのだ。「アレクサンダーを超え、世界の王になれ」と嗾けているのだ。
それは、共和政ローマの伝統を破壊する、最も危険で、最も魅力的な誘惑。
カエサルは、彼女の頬に残る乾いた血の跡に手を伸ばした。
今度は「消毒」という名の戯れではない。労わるように、壊れ物を扱うように、親指の腹でその緋色をそっと拭った。
「……君は、私を破滅させる気か」
「いいえ。あなたを『完成』させるの」
カエサルは苦笑し、彼女の血がついた指先を見つめた。
後戻りはできない。
この女の夢に乗るということは、ローマの全伝統を敵に回し、果てしない東方遠征(パルティア戦役)へと足を踏み入れることを意味する。
だが、52歳の英雄の胸の奥で、燻っていた野心が爆発的な炎となって燃え上がった。
元老院の老人たちの顔色を伺う退屈な余生など、この血の味を知ってしまった今、どうして耐えられようか。
「……いいだろう。その夢、私が引き受けよう」
カエサルは、彼女の腰に手を添え、出口の光へと促した。
その手つきは、もはや「愛人をエスコートする男」のものではなかった。
それは、同じ地平線を目指し、同じ深淵を覗き込むことを誓った、「歴史という巨大な車輪を回す、二つで一つの原動力」のそれだった。
「まずは手始めに、外にいる君の弟とその手先どもを、徹底的に片付ける必要がある。……ナイルが赤く染まることになるぞ」
「構わない。それが、私たちの新しい世界のための『洗礼』になるのなら」
重い石扉が再び開かれる。
地下の冷気とは対照的な、アレクサンドリアの熱気と殺気が、二人を迎え入れた。
白い死装束の女王と、赤い外套の英雄。
二人が並んで光の中へ踏み出した時、そこにはもう「亡命者」も「異邦人」もいなかった。
世界を再編し、やがてその野望ゆえに血を流すことになる、「美しくも恐ろしい神話の住人」たちが、ただ静かに、戦場へと帰還したのだった。
第一部、これにて完結です。
世界帝国の樹立という二人の夢と野心と恋が結びついた瞬間…運命の波は、どうやってこの二人を翻弄するのでしょうか!
世界帝国が見てみたい、という方はぜひ下にある**【☆☆☆☆☆】評価と【ブクマ】**で応援をお願いします!できないけど!!




