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あるいは、計算外の緋色

 アレクサンドリアの街路は、地獄の様相を呈していた。 ひしめき合う民衆の罵声。殺気立った視線。そして、運河から立ち上る腐敗したナイルの泥の臭いが、じっとりと肌にまとわりつく。 カエサルの屈強な護衛兵リクトールたちが、象徴たるファスケスを構えて周囲を威圧するなか、二人は一言も発さずに歩を進める。


 カエサルは、全神経を研ぎ澄ませていた。 建物の屋上、柱の陰、民衆の群れのなか。どこから死が飛んでくるか分からない。 その時だった。


 市場の屋根の陰から、不自然な光の反射と、空気を引き裂く凶悪な音が響いた。


「――ッ!」


 カエサルが盾となるべく動くよりも、わずかに早く、クレオパトラが動いた。 彼女は、自分を庇おうとしたカエサルの手を、その細い指ですり抜けた。そして、重い青銅のコピシュを、飛来する一本の黒い影に向けて、全力で振り上げたのだ。


 ガィンッ!


 鈍い金属音が響き、火花が散る。 彼女は見事に、暗殺者の放った矢を弾き飛ばした。……かに見えた。

 だが、彼女の細い腕は、青銅の剣の重みと矢の衝撃を完全に殺しきるには、あまりに華奢すぎた。 弾かれた矢のやじりが、彼女の陶器のような頬を、ほんの一瞬――舐めるように掠めた。


「……あ」


 彼女の口から、小さな、間抜けなほどに無防備な声が漏れた。 彼女は立ち尽くし、震える指先を、ゆっくりと自分の頬に当てた。 指先が、じわりと熱い。 彼女がその指を目の前にかざすと、そこには、真っ白な死装束にはあまりに不釣り合いな、鮮やかな「緋色」がべっとりと付着していた。


「……閣下。私、しくじってしまいましたわ」


 彼女は、痛みに顔を歪める代わりに、困ったような、そしてひどく儚い笑みを浮かべてカエサルを見上げた。 白亜の布の上に、一筋の血が、彼女の白い首筋へと音もなく伝い落ちていく。


 カエサルの世界が、その一滴の緋色で静止した。 彼の脳裏で、ガリアから積み上げてきた冷徹な政治的計算も、ローマの執政官としての威信も、すべてが粉々に吹き飛んだ。


 目の前で、自分が守るべきだった女が、血を流している。

  しかも、自分に守られるためではなく、「自分の手で、男を守ろうとして、傷ついた」のだ。


 その事実が、百戦錬磨の英雄のプライドを、これ以上ないほど残酷に、完膚なきまでに引き裂いた。


「……誰だ」


 カエサルの喉の奥から、人間というよりは、縄張りを荒らされた獣のような、低い、地の底から響く唸り声が漏れた。 彼はクレオパトラの肩を乱暴なほど強く抱き寄せ、その頬の傷を、まるで世界で最も高価な至宝が砕けたかのような、信じられない面持ちで見つめた。


「誰が……私の女に触れたッ!」


 次の瞬間、カエサルは腰の剣を抜き放ち、周囲の群衆に向かって咆哮した。 その姿は、冷静沈着なローマの政治家ではない。 最愛の獲物を傷つけられた、憤怒の化身――怒れる雄ライオンそのものだった。

 

アレクサンドリアの喧騒が、カエサルの咆哮と共に一瞬で凍りついた。 抜剣した彼の背中からは、ローマの全軍団の怒りを背負ったかのような、圧倒的な殺気が立ち上っている。民衆は蜘蛛の子を散らすように退き、暗殺者さえもその気迫に腰を抜かした。


 だが、その怒りの源であるはずのクレオパトラは、ただ一人、驚くほど冷静だった。 彼女は白い死装束の袖を使い、頬を伝う血を無造作に、けれどどこか優雅に拭うと、逆上するカエサルの逞しい、血管の浮き出た腕を、そっと掌で掴んだ。


「……落ち着いて、閣下」


 彼女の声は、戦場の喧騒をすべて吸い込むほどに静かで、透き通っていた。 カエサルが、信じられないものを見るような目で、血走った眼差しを彼女へと振り返る。


「……しくじったのは私です。重い剣など振り回して、自分の力量を見誤った……ただの、女の不手際。ですから、そんなに騒ぎ立てないで」


 彼女は、怒りに震える彼の剣を握る手に、自らの細い指を優しく絡ませた。


「貴方のその恐ろしい顔……この傷よりも、ずっと心に響くわ」


 彼女は人目を憚らず、彼の耳元へと顔を寄せた。 死装束から立ち上るミルラの冷たい香りと、傷口から漂う熱い鉄の匂いが、カエサルの鼻腔を直接、暴力的に直撃した。


「……どうしても傷が気になって、戦いも手につかないとおっしゃるなら。……そうね、口付けで『消毒』してくださらないかしら? それだけで、きっとこの痛みも消えてしまいますわ」


 カエサルは、怒りで火照った掌で彼女の顔を包み込み、傷口を検分した。 幸いにも、矢は彼女の陶器のような肌を薄く削いだだけだった。だが、そこから溢れる鮮血は、彼女の真っ白な死装束に、無慈悲な、そして呪わしいほどに美しい一滴を落とし続けている。


「……浅いな。だが、私の心臓を止めるには十分すぎる深さだ」


 カエサルは、押し殺した、地響きのような声で言った。 彼は周囲のリクトールたちが斧を鳴らして群衆を威圧するなか、わざと、街中のすべての人間が目撃するように、ゆっくりと、彼女の傷口に顔を寄せた。


「君の望み通りだ、お嬢さん。消毒これで済むなら……安いものだ」


 次の瞬間、カエサルの唇が彼女の頬に触れた。 公衆の面前、それも殺気立った暴徒たちの中心で、ローマの最高権力者が、追放された王女の傷を口付けで拭う。 それはもはや「治療」などではなかった。 「この女に触れる者は、ローマの軍団すべてを敵に回すと知れ」という、剥き出しの、そして狂おしいまでの宣戦布告だった。


 クレオパトラは、カエサルの唇の熱に一瞬だけ、恍惚としたように目を細め、蕩けるような溜息を漏らした。 だが、その指先は、カエサルの真紅の外套をぎゅっと、引きちぎらんばかりに握りしめていた。 彼女もまた、自分が仕掛けた「あざとい演出」が、自分の命を、そして心を、取り返しのつかない場所へと運び去ろうとしていることに気づいていた。


「……あら。痛みが、消えてしまいましたわ。閣下」


 彼女は、自分を刺そうとした世界を鼻で笑うような、不敵で、かつてなく美しい笑みを浮かべた。 頬に血の跡を薄く残したまま、彼女は重いコピシュを再び構え、前方にある大王のセーマの尖塔を指し示した。


「さあ……大王が、私たちの『婚礼の報告』を待ちわびていることでしょう」

 

二人は再び歩き出した。 血に染まった白き女王と、それを守る紅き獣。 アレクサンドリアの民衆は、ただ呆然と、歴史が塗り替えられていくその足音を、沈黙の中で聞き届けていた。


クレオパトラは、別に狙って傷ついたわけではないんですけどね。この辺の演出を神様が手伝ってくれるのも、絶世の美女たるゆえんなのでしょう。

絶世の美女を応援したい、という方ぜひ下にある**【☆☆☆☆☆】評価と【ブクマ】**で応援をお願いします。応援ポイントで、二人を世界の覇者に!

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